命の考え方

実習をすると稀に患者さんの死に直面することがある。私も実習中に2人の死期を看取った。たぶん、医学生の中でも多い部類に入るのではないか。

よく命は大事にしなさい、と紋切り型に言われる。学校でも親にもそう教えられるし、大人になっても左翼系マスゴミから毎日のように「教えこまれる」。教える側も「カラスは黒色」「水は冷たい、湯は温かい」と同じような感覚で教えこむので、反発したり疑問に思う人も多いはずだ。そして、教えられる側もよく考えないままこの言葉をなんとなく信奉してしまうので、「命は絶対的なもの」という誤った考えを身につけてしまう。

しかし、実際に何人かの死に直面すると、この言葉が本当に言いたかったこと、そして今の社会にはびこる常識の浅はかさに気づく。

命というのは儚い。ちょっとしたことで失われる。絶対的なものもなんでもない。まるで水面に浮かぶ泡のようにちょっとした刺激で消える。私の見た患者さんもちょっとした治療が引き金となり、数十分もしないうちに連鎖的に病態が悪くなってそのまま亡くなった。

「命を大事に」というのは、決してその価値が絶対的なものだからではない。命とは時の流れの中でふっと偶然に紡ぎだされる気まぐれなもの。ガラスのように壊れやすいから、大事に扱わないとすぐに失われてしまうからなんだ。

増える自殺。「生きている価値がないから」、と思うことによって起こると言われる。しかし、これだけ壊れやすい命の実態を知ってしまうと、生きることや死ぬことにこだわるだけの価値があるとは思えない。

多くの人が「ガラスは割れるもの」という認識を持っているのと同様、命もちょっとしたことで壊れてしまう。大事に運んでいても、割ってしまうこともある。そんな儚きものをあえて無理やり割る必要性もない。そこまでの価値は見いだせない。嫌なら勝手に割れる日を待てばいい。

命は大事に、そして命の本当の姿は決して重いものではない。むしろ軽すぎるぐらいだ。軽すぎて壊せない、壊したくない。一日だけふわりと舞い上がるカゲロウのように。

それが僕の「命の考え方」だ。