国民が日本をダメにする

昨日の神戸検察審査会の決定には本当に失望しました。今日の日経新聞を見るとやはり安全対策の専門家からは悪影響を懸念する声が上がっています。ますます日本は危険で野蛮な国になっていくんでしょうね。

検察審査会の決定を徹底的に批判しましょうか。

安全対策には優先順位というものがあります。技術的・財政的な困難がなければ、よりたくさんの人が利用する路線から安全対策をするべきもの。同じ事故が起きた場合でも、犠牲者数が格段に大きくなるからです(ここで注意すべきは「事故は起こる」という前提のもとで、この優先順位が成り立っていることです)。当時の福知山線は、東海道線山陽本線大阪環状線といった主要路線と比較すると、アーバンネットワーク内ではまだ地方路線の部類です。奈良線などと比べるとまだ都会路線でしょうが、沿線には田んぼや渓谷が広がるところもあり、昼間はそこまで乗客も乗っていないですね。事故当時ATS-P環状線東西線東海道山陽本線に設置されていましたが、福知山線に対するATS-Pの整備が遅れたことは、この観点から考えると合理的です。

そして、ATSの対策の優先順位は

  1. 絶対信号冒進の防止
  2. 許容信号冒進の防止
  3. 分岐器における速度照査
  4. 曲線における速度照査

の順番です。鉄道ではまずは信号を守るというところが最優先です。信号を守らなければ他の電車と衝突し、両方の電車の乗客に被害が及ぶからです。実際には速度なども影響しますが、単純に考えて1列車単独の事故と2列車の事故とどちらが被害がひどいかということを考えれば、このことは不思議なことでもなんでもありません(またここで注意すべきは、この優先順位は「事故が起こる」ことを前提にしているものです)。

そのうえで次に分岐における速度照査が重要になります。これは分岐で脱線すると分岐近くの駅に突っ込んだり、隣接する他の路線をふさぐことになり、多重衝突の危険性が高まるからです。あと、分岐が直線方向に開いていると制限速度が路線最高速度と一致することが多いですが、曲線方向に開いていると路線最高速度の半分以下となることがほとんどです。分岐するかしないかは、隣接する信号機のどちらが進行になっているか、という分かりにくい指標で判断しますので、分岐が曲線方向に開いていることを見落とす確率はそれなりに高いのです。よって、信号冒進防止の次に分岐における速度照査が重要になります。

そして、あの事故が起こった当時には鉄道業界でもオプションとしての位置づけでしかなかったのが、曲線における速度照査です。これは特に急勾配区間の直後の急カーブや半径の非常に小さいカーブなど、急激な速度低下が必要な区間でのみ設置されるものです。確かに福知山線の事故現場は直前の120km/hから70km/hへ、差し引き50km/hの減速が必要なので、路線全体に曲線速度制限を設置するとなれば必ず対象となっていたカーブでしょう。しかし、そもそもJR内でのATS整備の中でも曲線における速度照査自体が優先度が低く、また路線自体の整備優先度も低く、さらには業界内でもそこまで重要視されていた安全対策ではなかった、という事実を鑑みれば、あのカーブに速度照査地上子を設けなかったことは当時としては十分に合理的であり、あの事故を受けて全国の鉄道会社が焦って自社のATSに速度照査機能を付加し始めたことを考えれば、「市民感覚として当然のこと」と豪語する検察審査会の意見は、誰かがかつて指摘ように「後だしじゃんけん」以外の何物でもありません。

また、運転士の意識消失対策として当時JRはすでにEB装置の導入を進めていました。これは1分間何も運転操作をしなければ、ブザーが鳴り、ボタンを押さないと停止するという装置です。首都圏のJRでもEB装置が導入されており、EB装置の設置が意識消失対策として一般的でした。当該列車ににもEBが設置されており、意識消失問題に対しては十分な努力がなされていたと考えられます。さらに証言から運転士は居眠り等の非覚醒状態にあったとは考えにくく、たとえEBが作動したとしても無意識的にボタンを押していた可能性が高いでしょう。推測ではありますが、運転士はメモ取りに集中していたか、白昼夢のような解離状態だったのではと私は推測しています。

なお、以下は運輸安全委員会(旧航空鉄道事故調査委員会)による事故報告書の抜粋です。これをみれば、いかに検察審査会の判断がいい加減なものかがよく分かると思います。

同社の安全推進部長等には曲線区間における速度超過による事故の危険性の認識があった可能性が考えられるものの、同社がその危険性を曲線速照機能の整備を急ぐことが必要な緊急性のあるものと認識することは必ずしも容易でなかったものと考えられる

本来、この事故の本質はあまりに余裕のないダイヤとそれを懲罰的な制度で厳守させようとする会社全体の方針・体質にあったはずです。しかも、それは法律では裁けないような相当ファジーな問題であって、特定の個人が責任を負うようなことではなく、組織全体としての責任が問われるはずの問題でした。ところが、いつの間にかそれが起訴に都合がいいからという理由でATSの整備方針に論点がすり変わり、最終的には個人の立件という安全対策上最もやってはいけないことを、最低限の知識もないど素人が人民裁判的な制度のもとで議決してしまいました。こういうことが常態化するならば、事故が起きても立件を恐れて誰も真相を語ろうとはしませんし、真相が分からなくなればもちろん再発防止など到底不可能です。事故は将来に生かされません。

そもそも何の合理的理由があって彼らは個人を立件するだけの権限があるというのでしょう。知識があるとか、選挙で選ばれたわけではなく、単なる抽選でしかありません。しかもその議論過程は完全に非公開。そんな稚拙な集団が国家の権力をやすやすと行使してよいのでしょうか?誰もあの11人の素性を知って権力を託した人などいません。

ここ数年間、司法制度は市民感覚とか被害者重視という大義名分のもとに大きな方向転換をしてきました。たしかにかつての司法制度は遺族には非常に冷淡で、配慮のかけらもないものでした。意見陳述もできなかったのです。それを被害者重視という方向に舵を切ったこと自体は評価できます。しかし、一度大きく舵を切ったまま客観的な視点からの修正を図らず、同じ方向に固執して突っ走れば取り返しのつかないことになる、ということはこの福知山線事故が我々に与えた最大の教訓ではなかったのではないでしょうか?

私鉄王国関西、多数のローカル線、その中で井手氏が打ち出したアーバンネットワークのスピードアップの大義名分は決して間違っているものではありません。しかし、最初はそれで良かったのだけれども、いつの間にか速度向上だけが至上命題となり、必要な余裕時分までもが削られ、非人権的な教育をしてまでも所要時間を短くする、そんな背景のもとあの事故は起こりました。私は今の司法制度改革やテレビ市民の論調と、かつてのJR西の行動に強烈なメタファーを感じてなりません。今こそ、「被害者重視」とか「市民感覚重視」という大義名分を掲げたまま、それに固執して突っ走る司法制度改革に修正を図るときなのです。

もし、このままこの突進が続いて大きな問題が生じたとすれば(というか生じていますが)、これは官僚の責任でもなく政治家の責任でもなく、まぎれもなく国民の責任です。今度はあなた方・我々がJR西になる番です。