思想としての法律の稚拙性

現代の法律というのは基本的にロックやホッブズの時代の思想をベースとして国民国家自然権を中心とした考え方になっているが、哲学や現代思想の領域ではすでにポストモダンの時代に入っており、ロックやホッブズの提唱した概念の正当さは相当の範囲で失われつつある(つまり人間は理性で行動すべきであり、できるという考え方は妥当ではないことが判明している)
しかし、未だ現行の法体系はその現実に目を向けずじまいであり、憲法に基づき「共通の価値」や「正義」などという合意の不可能な理性的概念に基づく統治を目指そうとしている(等しきは等しくという考えにも反対する人も多いこの世の中である)。
この文化と法体系との間の時代の齟齬というものが、現在の法治に対する民衆の不満に繋がっており、その差は法曹の常識を多少いじくろうとも解決できるような距離にはない。常識の違いの問題は、もはや平均の違いではなく偏差の違いになっているからだ。
「ある一つのものや概念で支配する」という考えを基本とした法治は徐々に国民からの信頼を失いつつあり、これからは法治をいかにして除外していくかという方向に人々の関心が傾いていくであろう。強いて言うならば国民国家のような一律の法律に基づいた統治ではなく、現状での国際法のように、個人や共同体が合意できる部分から草の根的に合意して新たな法を紡ぎ直し、合意が形成できずに法が及ばない範囲においては人的な手法での統治が目標とされていくだろう。

法曹の中には自らが理想とした法の支配に真っ向から対立するポストモダン概念を快く思っていない物も多いが、机上の法律の世界ではなく現実の世界に身をおいてみれば、現代という時代がいかにすべてが「バラバラ」な時代であるかということが認識出来るはずだ。今や大学では学生の自治システムは個人主義によって根本から崩壊しており、東大ですら自治会の解散が議論されている。ばらばらを皆が好むので、全体共通の行事を施行することには極めて困難を伴う。人々の中には昔ならば到底理解出来ない常識を持つものが溢れ、またその逆方向の極端な常識を持つものもたくさんいる。そして多数は消失し、多数の少数派が乱立しているような状況だ。あるテーマについて問うてみれば、彼らはある一つの意見に集中することもあるが、別のテーマでは完全にばらばらになってしまう。これらをマトリックスにして細かく分類してみれば、多数派などというものは決して存在しない。

今、草の根的に若者の間で浸透しつつある静かな個人主義とそれにともなう既存体制の内的崩壊。これこそがポストモダンの本当の姿であって、バブル期のポストモダンは本物ではないのだ。その偽ポストモダンに基づいてポストモダンを批判していては時代に伴う本質の変化を見落とすことになるだろう。