六法

最近、法律の条文を無性に読みたくなって、六法を買うことにしました。ただ、六法全書は大きすぎて扱いにくいのでポケット六法というものを買いました。

ポケット六法〈平成19年版〉

ポケット六法〈平成19年版〉

昔は中高の生徒会の評議会で立法や条文の電子データ化に携わっていましたから(ただし、いつのまにか作った法律が忘れ去られてしまっているというのが高校の生徒会ですね)、結構条文にはなじみがあるのですが・・・。でも、僕らが評議会の幹部だった頃は、条文を作った人間がほとんどが理系だったような気がしないでもない・・・(僕らの頃の議長は医学部、副議長は薬学部、参議兼Web審議官だった僕は医学部にいきました。書記は文系だったかな?今の評議会議長も理系です)。まぁ文理比1:3ですからやむをえないのですが。別に理系でも簡単な法律は作れるということです。

医事法

医事法を初めて学ぶ人にお勧めなのが有斐閣アルマの「医事法入門」

医事法入門 (有斐閣アルマ)

医事法入門 (有斐閣アルマ)

法律の話もありますが、どちらかというと医事法を取り巻く環境や背景を中心に解説されています。

常識は恐ろしい

司法と世間常識のずれ
モトケンさんの意見に全面的に同意します。光市の事件は私は弁護団や加害者よりも、マスコミや世間の論調の方に強い違和感を感じます。実はもともと私はあまりあの事件には注目していませんでした。ドラえもんだのなんだのを言おうともそれは、刑事裁判という場で被告人と弁護団に保証された権利である、最後は裁判所が判断を下せばいいという考えでした。もし、それが稚拙な対応ならば加害者は厳罰を受けるだろうし、一理があると思われたのなら減刑される。ただそれだけのことだと思ったから、橋本弁護士の問題が騒がれようとも全く注目していなかったのです。今も正直、あんまり注目はしていません。弁護団にはドラえもんでも何でもいいので、世間や橋本弁護士は気にせずに加害者に有利になるように弁護を進めていって欲しいと思います。それが被告人弁護団としての最大の使命だと思いますので。

まぁ、話は変わりますが、とかく昔から僕は「常識」という言葉が嫌いなんですよね。論理的にとかくあやふやなものが多いのに強大な力を持っているからです。常識なんて論理的矛盾を追及すればいくらでも崩すことが出来ます。
たとえばみんなが常識だと思っている「他人を殺してはいけません」という常識。
じゃあ、なぜ他人を殺してはいけないのですか?と言って、全ての人が納得できるように説明できるヒトがいるのかということです。人を殺してはいけないという法律があるから、というぐらいしか説明できないでしょう。

倫理的にやってはいけない、という人が出てくるかと思います。では、生け贄えの風習はどうなるのですか?死刑はどうなるのですか?戦争で軍人が敵国の軍人を殺してはいけないのですか?自分が殺されかけても殺してはいけないのですか?生物学や地球環境というレベルで見たらどうなのか?
つきつめれば突き詰めるほど矛盾点や例外が露呈するのが「常識」というものです。そもそも論理的に組み立てるものが難しいからこそ、高次レベルで公理を置いた結果が「常識」そのものなのですから。

したがって、「常識」というのは使い方や使う条件を誤れば非常に恐ろしいことになります。それゆえにその怖さを認識して「常識」という言葉を使うのが本当の「常識」がある人の姿だと私は思うのです。ところが、多くの人はそういう怖さも知らずに常識という言葉を濫用しているのが実態です。さらに問題があることに、多くの人はその怖さを知らないがゆえに「常識」はある意図を持った人によって簡単に作られたり壊されることが往々にしてあります。

たとえば、近年、小泉劇場政治の結果、「民営化」を多くの人がいいことだと信じています。民営化に反対すれば、既得権を持った人間か、「常識」のない人間だと思われかねません。しかし、JR西日本が起こした福知山線脱線事故は、少なからず民営化の問題点というものも露呈させました。先日行われた郵政民営化も場合によっては日本を危うくしかねない要素をはらんでいます。民営化がいいのだと確定的にいえる要素は何一つないのです。「リスクとベネフィットを比較して、どうもベネフィットの方が大きそうだ、でもどちらがいいかは後で振り返ってみないと分からない」それが民営化についていえることです。にもかかわらず、民営化に対する庶民の偏った常識は解消する方向には向かっていません。それはいまだに小泉再登板を求める声が多いことからも分かります。

かつて一年のときのグループワーキングの場で、チーム医療に患者を参加させるのは常識だと、発表したグループがありました。医師のパターナリズムが批判される時代においては、一見すると患者の立場に立った素晴らしい意見のように見えますが、実際に治療に参加するとなると複雑なリスクとベネフィットを自分の頭で比較して結論を出さなければならないことも多くあります。性格によっては、自分で決めないといけないというストレスがより病状を悪くする事だってあり得るのです。それよりは、何をやっても医療者の責任は問いませんから、すべて先生にお任せします、という方が患者にとってはいい場合も存在しえます。むしろ、私も患者の立場なら医学的なことをつらつら述べられるより、漠然とした将来に対する不安を看護師さんあたりに聞いてもらう方がいいと思うこともありますしね(実際、高2のときに5日ほど急性胃腸炎で入院したときは、そっちの方がありがたかったし思い出に残っています)。また、患者はお金を払い、医療を受ける側であることから、治療の義務が課せられる医療者とは違い、治療に積極的に参加するかどうかということは患者の自由でもあります。チーム医療(治療)に患者を参加させるかということは、決して「常識」の一言で片付けることができる問題ではないと私は思います。

「常識だ」と言うことが非常識であるとすら言いたくなるくらい、「常識」という言葉の使われ方はおかしいと思います。「じょうしき(常識)」ではなくて「じょうせき(定石)」ならいいと思いますが。