続・「佃講師の白い虚塔」を考える

昨日に続いて、もうすこし考えてみたいと思います。ご本人のブログのコメントにあったもので
「あなたは他人を不愉快にさせたいだけなのか?それならば目的は達しているだろう。でもこのことを一般人が見たら医者の品位を貶めているということに気付かないのか?」
という内容のコメントがありました。

まさに、このコメントが言わんとしていることは非常に正しいと私は思うわけですが、ここにブログというコミュニティの限界を感じるのもまた事実です。

すなわち、おそらくという推測の領域を出ません(これは今回の記事全てに言えることです)が佃講師は、今回のアイロニーたっぷりのブラックジョークを多くの医師はネタとしてスルーするであろうと読んでいたのだろうと思います。中にはこういう重い事件に対するブラックジョークを楽しむ人もいるだろうから、そういう人は楽しめばいいと思っていたのだろうと推測します。前日紹介したような「いい情報と悪い情報は自分で判断して、読みたくないものは読むな、スルーするものは暗黙でスルーせよ、そしてスレの雰囲気にあわせて書き込め」という、昔の2ちゃんねらーの間では暗黙の了解とも言える意識を読者に求めていたわけです。ところが、フタをあけてみると、いわゆる「リアル的良識に基づいたブログ」を期待していた人々(ほとんどは医師ですが)から強い反発があったわけです。このことは「ブログが自分が意図した読者層だけには発信されない」というある意味当たり前ではあるんですが、盲点になりやすいブログのシステムとしての欠陥、が重大な問題を引き起こすということをimplyしています。

かつての2chでは逆に上記の意識が暗黙のルールとされていて、それを初心者なんかがやってきて普通にネタに応じて真面目なことを書き込んだりすると、コイツは2chを知らない、晒し上げだ!という感じにスレの住人全体でその初心者を排除したりしていました。結構経験がある人は多いと思いますが。したがって、2ch的に少なくとも書き込んでくる人間というのは上記の意識を共有していたというのが基本だったと思います。2ch自体にそういう書込をする読者層を限定するような場があったということです。だからこそ、我らは2ちゃんねらーであるという意識も生まれてきたのだとは思いますが。

しかし、ブログは基本的に多種多様な人がひょっこりやってきて、ひょっこりコメント(トラバも含む)していくという一時利用的な側面が否めません。いわゆる常連さんがコメントしていくとは限らないのです。したがって、ブログにコメントを残す人々に共有されている特殊意識というのは殆んどないか、あっても極めて弱いものであると考えられます。したがって、ブログのコメントというものは基本的にネットに住んでいる人々すべてを平均化したような一般的な認識から発せられるものであるということに留意する必要があります。いわゆる書いている人はマイノリティにだけ見てもらえればいいとおもっていても、コメントする側はマジョリティなのです。創成期の2chがマイノリティ同士(2ch内ではそれがマジョリティであったのですが)で言い合いをしていたことに比べるとブログというのは、その構造上、意見発信の指向性が大衆に向いているとも言えます。ここがマイノリティブロガーには大きな盲点となる部分です。

もちろん、おそらく一般市民がネットに進出してこなかった頃の創成期のブログというものは、どちらかというと2chに似たものがあったかもしれません。しかし、多くの人々がネットに進出してきた今、ブログをコメントする側である「ネットに住んでいる人々すべてを平均化したような一般的な認識」は多少の老人世代を除いて、「リアルに住んでいる人々すべてを平均化したような一般的な認識」に近づきつつあります。ネットがリアルに近づいているのです。

かつてリアル世界のマイノリティ達は、自分たちのフィールドを求めてネットというマイノリティの割合が比較的多い世界に進出してきました。2chも、今は大衆化していますがもともとは左翼というマイノリティの掲示板です。考えの違うマイノリティ同士で互いを罵倒したり、言い合ったりしていました。スレの雰囲気を見ればどのマイノリティがこのスレの住人なのかというのはすぐに分かりました。それはそれでリアルとは違う議論が出来て面白かったのです。しかし、ブロードバンド普及に伴い多くのマジョリティもネットに進出してきました。マイノリティの割合が急激に減少し、彼らは逃げこんだ先のネットでも完全なるマイノリティになってしまったわけです。ここ3、4年の間に。

かつては数多くのマイノリティが書き込みまくっていた2chも今では「壷語」という特異な言語は受け継いでいるものの思想的にはかなり大衆的なものになってしまいました。2chは変わってしまったのです(だから私は今の2chにあまり魅力を感じません)。追い出された、かつての2ちゃんねらーの一部は新しく出来たコミュニティであるブログやSNSにその助けを求めてきました。中にはあちこちのブログ等にコメントをするだけという形でゲリラ的な活動をしている人もいます。しかし、SNSにもブログにも落とし穴がありました。一つはブログはそのシステムの特性上、発言が一般大衆に向きやすく、また、個人運営のため、かつて2chのスレにあったような意識を共有しないものを排除する場が作りづらくなったこと。そして、SNSは大衆化が相当すすんでどちらかというとリアル社会をベースとした馴れ合いコミュニティになってしまったことです。たとえば「〜会社のひと集まれ」というように。思想的背景をあまりベースにはしていないわけです。したがってマイノリティたちは同じ思想背景の人を探すことがなかなか難しいわけです。

実は、今回のhatenaが行ったAddStarシステムにはこの問題を解決しようとする意図があると思います。すなわち、ブログの記事は公開、コメントは思想背景が同じ集団に限定することで、SNSではできなかった、同じ思想背景の人を手っ取り早く集めること、そして、ブログでは成し得なかった、同じ意識を共有するものだけでコメントしあうことを同時に実現しようというのです。もちろん、通常のコメントを禁止設定にしなければ意味がないですがね。

その意味で、この試み自体は面白いと僕は認識しています。なんか佃講師のブログから社会システム論的になってしまっていますが、今回の事件から私は上のようなことを考えました。そして、この教訓を与えてくれました。

教訓:ブログはそのシステム上、意見発信の指向性が大衆に向いているという特徴がある。マイノリティブロガーはそれに留意しなければならない。

そして、次のことが言えるでしょう。もはや多くの人がネットに参入している今、一時期、マイノリティたちはマジョリティたちの中で窮屈な思いをしていたが、新しいネットコミュニティが次々と開発されることによって多様性を持った新たな社会が生まれる可能性がある。