厚労次官退任

from Shizuoka
厚生労働省事務次官は辻哲夫という人だったのですが、社保庁という傘下の実務官庁の不祥事の責任を取る形で更迭となりました。この辻哲夫氏は厚労行政史上稀に見る、厚生労働行政に非常に熱心な次官であちらこちらに出向いては「国民のために持続可能な厚労行政」「予防医学の重要さ」というものを語っているそうです。通称、辻説法とも言われています。これだけ熱心なゆえに、厚労省のすべてをさらけだして行政を行うため、下の官僚たちは結構苦労しているそうなのですが、官僚も含めて多くの人が辻氏の話を聞いて感動するのだそうです。まぁ、ここまで厚生労働行政が批判されるのは、この人が厚生労働行政を透明にした効果というのも大きいようで、その効果は国民にとっては計り知れません。もっとも予防医学が医療費の削減につながるかというのは、学者によっては意見が分かれるところで、医療ブログなんかでは何かあるたびに「改革のための医療経済学」という本を持ち出しては、予防は医療費削減につながらないと叫んでいるわけですが、僕自身はこの本を尊敬はしますが、これが本当かどうか、真理として正しいのかはよく分かりません。あくまで、とある学者の一つの意見として捉えています。もともとあの本を書く人にもそれなりのバイアスはあるわけで、そういう論文があるからと、それを頭ごなしに正しいと評価するのは危険だし、サイエンチストを自覚するのならすべきではないでしょう。お気づきのように僕が少し医療ブログから距離を置き始めているのは、彼らの活動が労働組合的な目的を持ったものが多く、必ずしも真実を見ようと努力をしているわけではないからです。もちろん、すべてではないのですが。彼らはあくまで彼らの立場で主張をしているだけだと思います。今までそれに気付かなかったのがちょっと情けない気分です。まぁ、将来彼らと似た立場に置かれることは間違いないので、それは已むを得ないのかもしれませんけどね。「〜崩壊」という危機を誘発するような言葉に人間は非常に敏感です。人間をより感情的にし、真実を見極めようとする姿勢をあやふやにします。事故報道なんかもそういう傾向があります。そこで、いかに冷静に物事を見極められるか、様々な視点・立場からモノを見れるか・・・そういう訓練が我々には求められているのかなと思います。

まぁ、とかく、辻次官は予防医学が医療費削減やQOLの向上につながると信じて熱心に語っていて、多くの人をひきつけてきました。ある意味、国民の健康を思う次官だったわけですが、退任してしまいます。後任はどういう人なのかよくわかりませんが、少なくともそういう次官ではないでしょう。おそらく、省益を守り厚生労働行政も省や内閣に有利に働くように戦略的になることでしょう。非常に残念です。

ところで、最近、現場主義ということがよく言われています。たしかに現場を知らないことはマネジメントの上でよろしくないのは確かです。しかし、現場は重要だけれども決してすべてではないということは念頭に置かなければなりません。現場には現場なりの甘えもあります。現場のいうことをすべて聞けば事業が継続しません。あくまで現場は一つの意見、経営も一つの意見なのです。そのバランスをとるという作業が経営の面白さでもあり、難しさでもあるのですが。

今の厚生行政、特に医政を取り巻く要素を見てみると、一つは財務省経済財政諮問会議という極があります。これは主に経済の活性化と国家財政の健全化に最大の重点を置く人々です。医療は大事だが、その費用がこれ以上増えてもらっては国が成り立たなくなる、企業財政が厳しくなるという危機感があります。もう一つは医者や医療従事者という極です。彼らは医療にかけるカネ・モノ・ヒトが足りない、労働環境や給料が耐えられないからそれを増やして欲しいと考えている人々です。そして、もう一つの極は患者・国民です。一応、患者と国民の立場は微妙に違っていて、2極といえるかもしれません。患者は高いレベルの医療をできるだけ安い自己負担で行って欲しいと考えています。一方、国民はいざというときのセーフティネットとしての医療は大事だが、無駄な医療は税金が増えるもとなので、あるいは医者がムカつくので、医療費は抑えて欲しいと願う人々です。あと、死因究明などの医療事故関連では法曹という極が現れます。彼らの多くは医療裁判は自分たちにとってはおいしいビジネスが期待できるので、事故が増えることは望んでいませんが、それが裁判やトラブルとなることはある程度期待しています。

こういう風に眺めてみると、いかに医療という世界において医者の意見が通りにくいかということはよく分かります。だいたいの立場が医者とは反対の立場だからです。そのかわり、一つ一つの医療をミクロレベルで見ると医者はある程度の自由決定権を持っています。たとえば治療薬をどれにするかとか、手術を勧めるかどうかとか。ある意味、今まで日本の医師が医師会の影響もあるのでしょうが、あれほど医政に強い影響を持っていたことが不思議に思えます。厚生労働省は基本的に単なるこれらの極の調整役ですから、基本的にこの極の構図が変わらないと厚労行政は変われません。一時的にどれかに偏った行政的配分をすることは出来ますが、他の極から強い反対が出てくるので、いずれ元に戻ってしまいます。では極を変える、医療寄りにするにはどうすればいいのか

  1. 医者極の主張を強くする(均衡点から医療側のポイントを遠くする)
  2. 他極の主張を医療寄りに変えていく(他極の位置を医療側に近くする)
  3. 人数配分を医療側に多くする(医療側の重みを重くする)

この3つが考えられます。1番は簡単で均衡点は医療側によりますが、均衡点から各極までの距離が遠くなるので全員の不満足度は上昇します。2番は難しい作業ですが、均衡点も医療側に近くなり、距離も短くなるので全員の満足度が上昇します。3番は現実的に増やしたとしてもせいぜい数百人、数千人のレベルなのであまり意味がありません。今の医療ブログの目的は基本的に1番を実行しているものと考えられます。それはそれで結構なことですが、全員の不満足度が高くなると医療全体への不信感が高まりかねず、人数的に圧倒的な他極の主張が逆サイドに行ってしまう可能性は否定できません。バランスがとれずに崩壊の可能性もある。でも2番は地道で難しい作業ですが、実行すればある程度持続的に高い効果が見込まれます。

たとえ医療崩壊が起こっても、医療自体は人間が営みを続けている限り永遠のものです。医政を取り巻く極の立場も、それぞれが弱くなったり強くなったりすることはあっても、なくなることはほぼないでしょう。シッコという映画が上映されたようですが(厚労省の医政官僚が試写会場にいて、テレビに映っていた記憶が・・)、まぁ酷いといわれるアメリカでも医療自体はちゃんと存在するわけです。もし、本当に医療の末長い発展を考えるのなら1番ではなく2番の選択肢を選んだ方がいいと思いませんか?私はそう思うのですが・・・。