前から読みたかった本

「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

有名な本ですが、いままであまり読む機会がありませんでした(というか、書店で手にとってはみるものの、文庫本はわざわざ買いたいとまでは思わないわけで)。今日、たまたま図書館で経済関連の本をあさっていて発見。

まぁ、コンプライアンスの問題点については何度か大昔に前身のブログでも指摘したわけなんですがね。

この本でも指摘してされていましたが、官庁の縦割りの問題というのは、結構大きな気がします。昔は官僚主導政治でしたから、利害関係の調整という面で官僚同士も交流が多かったし、接待という民間との交流もありました。しかし、「小さな政府」方針となり、また官邸主導政治になってから余計に官庁の縦割りは酷くなったように感じます。「小さな政府」の方針により、本省の業務量が膨大になりすぎて、所管の担当法律以外のことは面倒だからやる気がしない、たとえやる必要があることが分かっていても各官庁の上司である官邸・内閣府や与党の大方針から異なれば、それまでの努力が全て水の泡になってしまうから、元からやらないほうがいい、という風潮になっているんですね。内閣府経済財政諮問会議で決まったことに、伝統的に力が弱く、業務量も他の省庁を圧倒している厚労官僚が無理に反抗しようとしないのは人間心理を考えても当然のことです。

医師不足についても厚労省があまり積極的に対策をしている様子がないのは、「ただでさえ業務量が限界なのに、厄介な新しく仕事を追加するのは極めて面倒だから」の一言に尽きるかと思います。したがって、政治家、特に与党レベルで決まって成立が確実そうな制度改正以外はやりたくないのです。与野党で激しい議論になることをすれば、政策が紆余曲折し、限界に近い業務量がさらに増えるだけで、到底仕事をまともに完遂できないという状況に陥るのは目に見えています。実際、これ以上業務を増やすのは無理なので、今後の方針としては暇そうにしている都道府県に医師確保などの対策は基本的にすべて任せるということになっています。国の役割は、うまくいった地方の例を取り上げてそれを他の地方に伝えたり、更にうまいくようにその地域に補助金を与えるだけの役割です。もちろん、その場合、地方間で大きな医療格差が生まれることは十分に予想できますが、勤務医と同じドミノ倒し状態にある本省にはそれを国として行うだけのマンパワーはありません。

官僚を批判すればいいと思っている人に私が霞ヶ関を見て以降強く反発しているのは、官僚を批判すればするほど、「小さな政府」「官邸主導政治」の中では縦割りが深刻化し、問題解決から程遠くなるようなシステムが現実として出来上がっているからです。これはもはや、誰の責任かとかそういう問題ではない。強いて言うならば戦後の長年の国民の政治に対する無関心、そして1990年以降から始まる「小さな政府」の流れとそれに対する国民とマスコミの盲目的な支持によるものだといえるでしょう。いまや、野党も与党も「小さな政府」に反対する人はいません。もちろん、「小さな政府」「官邸主導」であったとしても、そこで官僚の上に立つ政治家や内閣がきっちりと横糸の役割を果たせば、うまく事は進むでしょう。しかし、日本の政治家はアホなタレント議員が当選することからも分かるように実力のない人間が大半です。またそういう政治家を未熟な国民が当選させてしまっています。

今までは官僚が縦割り機構の中でも利害調整や民間との接待などで省庁間、省と現場との間の糸をつないできましたが、マスコミ・国民・政治家による官僚バッシングによってその糸はズタズタに切られてしまいました。もちろん、それは癒着を防止する、より民主的に行政を行うという意味で、最終的な方向性としては望ましいことではあります。しかし、糸を切ってもいいのは「少なくとも誰か官僚以外の別の人間がその糸の役割を果たす」という条件下でのみです。現在の日本では、この条件が全く成り立っていません。官僚は自らの横糸を切られたこと、そして小さな政府で深刻な人手不足に陥っていることから、より縦割り・孤立構造が強くなりました。にもかかわらず「政治主導」をスローガンとして新たな横糸としての役割を期待された官邸や政治家は全体的に機能不全に陥っており、任務を果たしきれていません。それどころか、「打ち出の小槌」だと思っているのか、さらに官僚同士や官僚と現場の糸を切るような官僚バッシングを続けています。これで行政がうまく行くと思う方がおかしい。もはや、この状態は指導者なき巨大組織といわざるを得ません。

まだ、今は官僚たちが優秀なのでなんとか無政府状態は避けられていますが、このようなことが続けば近い将来、日本全体が無政府状態になってintegrityを失うことは間違いがないと思います。無政府状態と聞いて「自由だ」と喜ぶ人もいるでしょうが、それは甘い考えというものです。歴史的に見て、指導者なき巨大組織はそのまま放置されることはまずありません。必ず別の野望を持った人物が、その状態を利用してまんまと組織をのっとることになります。それがもし、独裁者ならば日本は民主国家ではなくなってしまうでしょう。それがもし、軍と警察ならば日本はミャンマーのような軍政に陥ることになるでしょう。もし、それが外国ならば・・・・日本という国家自体が消滅してしまうかもしれません。まだ、官僚主導政治の方がマシです。

一つ、私がこの深刻な問題に対して提案するのは道州制の導入です。もはや与党も野党も「小さな政府」と言っている段階で、これを昔の官僚主導の大きな政府に戻すのは難しいと考えるべきです。実際に、本省はドミノ倒しが発生するくらい深刻な人手不足に陥っています。
となると、大きく発想の転換を図る必要があります。そもそも本省が人手不足になる一つの原因は、法律の所管が本省にあるからです。都道府県などから法令の解釈について問合せを受ける業務は本省のキャリア事務官が担っていて、彼らはいつでも午前様です。しかも、そういう業務に加えて政策立案も担当しているという二重業務になっている場合も多い。しかし、本省が法律を所管している限り、このような非常に重要な業務を外部にまわすことはできません。

ならば、いっそ財政と法律の所管を地方にまわしてしまえばいいのです。国内で六法のような重要な法律は変わってしまっては問題ですし、現時点でそれだけの機能を地方議会が持てる状況にはありませんが、いわゆるアメ・ムチ法や解釈基準などの柔軟な変更は地方公務員でも十分可能です。ただ、県ごとに解釈基準が異なるとなると47も法令があることになり、非常に弊害も多いので、行政単位としてもっと広域である道州ごとに法律を所管させるようにするのがいいかと思われます。中央の役割は、道州が発令する「道州令」が憲法や国単位で決められた法律に違反していないかを審査し、許可を与えるということと、道州から国レベルの法律の変更が必要であるという要求があった場合に道州担当者を交えて対応を検討することに限定してしまうわけです。これにより基本的には地方が行政・財政の仕事の大半を担うことになります。基本的に政策立案も道州に任されます。国はそれを取りまとめて国としての整合性を保つだけの役割に成り下がるのです。まさに国から道州への権力移動を行うわけです。

この道州制(実質的な連邦制)の利点は

  • 制度を地域にあわせた臨機応変なものにできる
  • 必要なところに必要なお金を柔軟に配分できる
  • 住民がより政府に対して関心をもち、政治に責任を持つようになる
  • 州ごとに制度が違うので巨大マスコミの支配が多少は崩れる
  • 中央政府を名実ともに小さな政府にできる
  • 本省−出先機関都道府県部局−市町村部局となっていた業務の重複を、(中央本省)−道州部局−市町村と少なく出来る

問題点としては

  • 地域ごとに制度や規制が違うので企業活動に支障が出る
  • 道州を越えた重要法案を預かる中央政府が形骸化する
  • 地域と政治が近くなることで癒着や汚職が増える可能性がある
  • 道州を越えた地域連携が難しくなる
  • さまざまな面で地域格差が生まれる
  • 国の借金をどう割り振るか?特定の道州が財政破綻した場合どうするのか?

などが考えられます。

一種のニッポン分割なわけですが、政治と行政が地方に密着する分、予算主義で単年度会計であるとか、縦割りであるとか、そういう非効率で、目の前の問題に迅速に対応できない行政システムは多少はマシになるものと思われます。道州によっては企業と同様の会計制度を導入するところがあるかもしれません(実は霞ヶ関は基本的に前年比較を入れた単式簿記であって複式簿記ではないのです)。ただ、この制度には地域間格差を是認するという前提があり、それを国民が受け入れることがすべての基本となります。場合によっては、多くの人が社会保障などが好条件である特定の道州に移住してしまい、予想だにしなかったような一極集中を招く可能性もあります。一種の強者州と弱者州が生まれるかもしれません。

ただ、小さな政府の方向性を維持しながら現在の体制で国政を保つことは、国家公務員と地方公務員の数や仕事量を比較すると、ほぼ不可能だと考えられます。「小さな政府」方針を転換するか、道州制を導入するか・・・・岐路は実はすぐそこに迫っていると私は思うのです。

法令遵守からは随分離れましたが、この本の結論は科学技術の進歩に追いついていない組織構造に対して素晴らしい指摘をしています。

組織にとって不可欠なのは、社会の要請と周囲の環境変化をすばやく認識する鋭敏性です。それが実現できるのは、単なる上命下服のトップダウンの形態でも、根回し中心のボトムアップの組織でもありません。組織の構成員全体が鋭敏性を持ち合わせ、それが組織全体の鋭敏性として高まっていくことです。
つまり、組織が「眼」を持つことです。構成員一人一人の鋭敏性が組織としての鋭敏性に昇華し、社会環境という光に反応し始めたとき、組織には「眼」が生まれれます。
そこから組織の爆発的進化が始まるのです。

中小企業という小さな組織にしても、官僚という大きな組織にしても、そして国家という非常に大きな組織にしても、その構成員が一人ひとり自分たちの置かれている状況に「眼」を向ける、決して大きな問題を人任せにしないということはその組織の恒常的な存続に必須の条件であると考えられます。だからこそ、家の存続のためには、問題を官僚や政治家任せにして責任転嫁することなく、国民一人ひとりが関心と責任を持たなければならない、国民が賢くならなければならない。それができるのが真の民主主義国家であり、また日本が持続可能な国として生き残ることが出来る唯一の道だと、私は思うのです。