医療の不確実性

「医療の不確実性」と言っても、簡単には納得しない方も多いのではないかと思います。以下の文章は一般人向けの文章です。不正確な点や分かりにくい点はあると思いますがご了承を。

みなさんは、おクスリがどうやって効いているかご存知でしょうか?
単純に「この薬を飲むと〜病が治る」というような理解をされている方も多いと思います。でも、実際には製薬会社や医療者の理解は違います。多くのクスリは、細胞の表面に顔を出している受容体と呼ばれる鍵穴にくっついたり、はまりこんだりして、その働きを強めたり弱めたりする。ただ、それだけの役目なのです。「鍵穴」こと受容体は一つの細胞に多数出現しており、その種類も様々です。受容体は細胞の外でクスリがくっつくと、形が変わり、細胞の中に「クスリが来たよ」ということを知らせます。玄関でピンポーンと押したら家の中でもピンポーンと鳴るように。

細胞の中では色々なモノが働いています。皆さんも生きるためにごはんを食べないといけないように、細胞も生きるためにグルコースと呼ばれるごはんが必要です。ごはんを分解してエネルギーを生み出している機械、その機械に「もっと働け」といった指示を伝える命令書、命令書に命令を書き込む機械、こういった機械そのものを作っている機械、不要になった機械や命令書を粉々に砕いてリサイクルする機械・・・挙げればきりがありませんが、細胞の中では何千や何万という種類の機械や命令書が存在し、細胞液と呼ばれる液体の中をふわふわ漂いながら各自の仕事をこなしています。それだけならばまだ単純なのですが、これらの機械や命令書は液の中をふわふわ漂っていますので、たまに別の機械と衝突することがあります。そのとき、相性がよければ二つの機械は「合体」することになります。人間でもそうですが合体して興奮するか、げんなりするかは相手次第です。合体して猛烈に働き始める機械もいますし、合体すると死んだかのように動きが止まってしまうこともあります。

このようにして、細胞の中では何千や何万という機械や命令書が互いに影響しあいながら働き、その結果として細胞は生き続けることが出来るのです。生き続けるだけではありません。細胞にはそれぞれに役割が与えられています。たとえば、筋肉の細胞は「動かせ」という命令が来たときに、細胞の長さを伸び縮みさせるという役割を持ちます。すい臓のある細胞は「ごはん(グルコース)が血の中にいっぱい流れている」という情報を受けると、作り置きしていたインスリンという物質を血の中に放出し、体中の細胞に「血液中のごはんを取り込むように」と命令します。このように細胞に割り当てられた仕事をこなすことも、また細胞の大きな役割です。一つ一つの細胞がちゃんと仕事をすることで人間は生きることが出来るからです。

前置きが長くなりすぎました。クスリが鍵穴こと受容体にくっついてからの挙動を見てみることにします。クスリが鍵穴こと受容体にくっついた後、受容体は形が変わり、細胞の中に「クスリが来たぞ」ということを知らせるのでした。知らせを受けると、その受容体の相性のよい機械がやってきて、受容体と「合体」します。先ほども説明したように、合体したときの作用は相手次第です。受容体とくっつくことで機械の仕事がはかどる場合もあれば、ストップしてしまうこともあります。いずれにせよ、その機械が書いている命令書の数は増えたり減ったりします。機械や命令書はお互いに影響しあっているので、一つの命令書の数が変わると、その命令書でうごいている機械も働きぶりが変化してしまいます。このようにして、「クスリが来たぞ」という情報が次々と細胞内で働いている様々な機械や命令書の数や働きぶりを変えてしまい、最終的に細胞自体が担っている仕事の質や量まで変えてしまいます。たとえば、筋肉の細胞では「動かせ」という命令が来たときに細胞を伸び縮みさせるという役割がありましたが、「動かせ」という命令を受け取る受容体を別のクスリで邪魔をしてやると、細胞は伸び縮みができません。その結果として筋肉がゆるんでしまうのです。

病気の人では一般的にどこかの細胞の役割がおかしくなっています。原因はなんにせよ、細胞が必要以上に働きすぎたり、怠けたり、あるいは全く働かなくなってしまっているのです。そこで、クスリをつかって細胞をいじってやり、なんとか細胞が正常に働けるようにしてやろうとするのです。これによって「病気が治った、改善した」という効果が得られるのです。どうです?なんとなくわかりましたか?

もちろん、例外は数多くあります。高血圧治療などでは別の細胞の働きがおかしくなった結果生じた不都合な状態を、正常に働いている細胞をもっと働かせて元に戻そうとする場合もあります。そういう場合には、正常な細胞をクスリでいじっているのですから、当然、その細胞が担っている別の役割に影響がでるかもしれません。これは一般的に副作用と言われています。

さて、ここからが言いたいことです。いかにもクスリの仕組みがわかっているかのように書きましたが、これはあくまで大まかな流れです。実際には分かっていないことが大変多い。

  • そもそも細胞でどんな種類の機械や命令書、受容体が働いているのか完全には解明されていない
  • さらに、それぞれの機械や命令書がどのように、またどれと互いに影響を及ぼしているのかほとんどわかっていない
  • 遺伝子と呼ばれる人間の設計図の違いにより、同じ種類の機械や命令書であっても人によって働き方や他の機械への影響の仕方が異なる
  • 遺伝子が全く同じでも、細胞にどのくらいの数の機械や命令書、受容体が存在しているのか(いわゆる発現量)は状況次第で変わるため、よく分からないし、現場ではそれを知る手段はない
  • 病気において、どの細胞のどの部分が異常を起こしているのか、それが症状にどうつながっていくのか、解明されているものは少ない
  • 上の理由から、クスリに対する効き方も人や病状によって違うし、どういう結果になるかはある程度の予測はつくものの、実際にはやってみないと分からない

ということで、医療は分からない事だらけです。僕が医学研究が大事だといつも感じるのは、現在の医学には分からないものが多すぎるためです。

もちろん、他の科学でも分からないことは多いです。しかし、医学や生命科学に関しては実用レベルに対して分からないことが多すぎます。しかも、設計図の違いによって、一人一人におけるクスリの効き方や病状が変わってくるのです。不確実にもほどがあると言いたくなるような現実がそこにはあります。けれども、目の前には命の関わる病気の患者さんがいる。なんとかしなければらなない。それが医学であり、医療なのです。

クスリや分子の視点で医療の不確実性を説明しました。分かりにくいとは思いますが、少しでも多くの方が不確実性を理解してくだされば幸いです。