一歩進んだ尊厳死

簡単には語れない難しいテーマですが、私に60代以上の人間からよくぶつけられる要望として
「あんたも新しい治療を開発するぐらいなら、楽に死ねる方法を考えてよ」
とか
「ボケて『あ〜』とか『う〜』とか言ってるぐらいなら殺してくれた方がいい」
というのが案外多いことに気付きます。少なからず人を救いたいと思って医学部に入った私には、そういう要望というのは若干の違和感を感じないわけではないです。しかし、「それでもその方は一生懸命に生きているんじゃないですかねぇ?」と言うと「本人は自分がボケていることが全くわかってないんや。それやったらいっそ死んだ方がマシやと自分なら思う」と返って来ることからしても、決してお年寄りが冗談でこのことを言っているわけではないということもまた、強く感じるのです。

最近は「ナチュラルこそ素晴らしい」という考えから、尊厳死というのが流行になってきました。どうせ末期で治る見込みがないのなら無理に延命治療をせず、自然の為すがままに死にたい。基本的にはそのように捉えられています。しかし、最近はさらに一歩進んだ考え方も出てくるようになってきました。「たとえ人体が機能的に助かる見込みがあっても、社会的な命を失うのであれば、治療をしてくれなくても結構。むしろ死なせてくれ」
それがまさに僕にぶつけられた要望であり、また一部の一般市民の中で広がりつつある感覚なのかなぁという感じがしています。

ただ、このような死に方には大きな問題があります。確かに一見するとこれは一種の積極的安楽死ではないかと考えることもできます。しかし、そもそも安楽死とは字義通り「耐え難い苦痛があるとき」にそれを緩和する目的で行われるものです(よって動物の安楽死安楽死でないことが多い)。従って、このようなケースは安楽死には相当しません。尊厳死でもなければ安楽死でもない。相当な倫理的問題をはらんでいるわけです。まさしく生きることの出来る人を殺すことになるわけですから。ただし、少なからずの人がそう願っているという現実は、患者の自己決定権の観点にも照らして充分に考慮されなければなりません。

一つの考えとして重度の痴呆や脳疾患を、「治る見込みのない末期症状」と考えたり、それに伴う社会的な死を「苦痛」とみなすという考え方があります。もしそれが適用されれば、このような死に方は尊厳死安楽死の部類に入ることになり、幾分かの倫理的批判を逃れることができるかもしれません。ただ、そもそも重度の痴呆や脳疾患が、苦痛であったり末期症状であったりするのか・・・その定義づけはかなりの疑問と批判を生むことになるでしょう。

「誇り」を大切にする文化の中で「社会的な死」をどう考えるのか。高齢社会の中で、これらの問題を医学的な面だけでなく、倫理や世論の点でも考えていかねばならなくなっているように思います。