ゆとりは間違いか?

「ゆとりでおかしくなった」という声からゆとり教育が方向修正されることになったようですが、小2の終わりごろから受験競争を経験してきた身としては、はたして「ゆとりを元に戻すことがいいのか?」ということは強く疑問に感じます。はっきり言って、しんどいんです。好きなことはやりつつも、いつも時間とプレッシャーに追われて過ごしてきましたから、疲れ切ってしまいました。

そもそも、ここまで受験競争が激しくなったのは

  • 少子化で(特に一人っ子の場合)一人の子供に過度に期待をせざるを得なくなった
  • 中産階級の増加により子供一人当たりにつぎこめる教育費が多くなった
  • バブル崩壊による長期の不況で子供が生き残れるよう教育に熱心になった

などの理由が大きいとされています。子供の問題ではなく「大人の都合」が子供を過度な受験競争に追いやってきたというのが、これまでの流れだと思います。しかも、僕は多くの人の評価とは違って、この流れは未だ止まっていないように感じます。確かに教育内容はゆとりで減ったかもしれません。少子化で大学は全入時代です。ですが、受験にかかるプレッシャーというのはさらに強くなっているのではないかと思うのです。

その根拠は多くの子供が「不況を知っている」ためです。高度経済成長期も確かに受験戦争はありました。しかし、その時代というのは今の中国やインドのように「イケイケどんどん」の世界じゃないですか。たとえ受験戦争からこぼれ落ちても、なんとか流れに乗っていけばいわゆる「普通の生活」が送れたわけです。実際に、企業の部長クラスでも高卒の人は多かった。ところが、日本が成長するにつれ大学に入るのが当たり前の時代になり、また不況で親世代がリストラをされてホームレスになっているのを目の当たりにしている我々の世代では、「受験競争からこぼれ落ちる=底辺生活あるいは最悪死が待っている」ということと同義です。とにかく上に行きたいというよりは、下に落ちたくない。我々の世代が安定志向といわれるのはそういう感覚を持っているためです。

人間、上に行けばより報いがある、落ちても最後はなんとかなるというのならポジティブな姿勢で頑張ることができます。しかし、上に行かないとまともな報いはない、落ちたら死んでしまうというのなら、強烈なプレッシャーを感じながらやるしかありません。とくに落ちるか否かの境界でさまよっている多数の中間層にとっては、相当キツイものがあります。何かいつも追われている・・・ボーダーという黒い闇に追いかけられている・・・少しは休憩をさせてくれと言いたくもなります。

ゆとり教育がもたらしたとされる功罪は色々あります。しかし、それが本当にゆとり教育によるものかということはきちっと吟味されてはいません。たとえば、落ち着きがない子供が増えたと言います。学級崩壊が増えたと言います。ゆとり教育のせいだと言われます。しかし、それはすでに小学一年のレベルから始まっていると多くの教師は語ります。小学校が始まる前から起こっている現象に対して、それが学校教育のせいだと言えるでしょうか?

国際的な学力が落ちたといわれます。ゆとり教育のせいだといわれます。しかし、本当にそうでしょうか?僕らが小学生の頃からゲームボーイなどの携帯型ゲーム機が普及し、暇さえあればゲームができるような環境が整いました。また、2000年以降はコンピュータの高性能化とブロードバンド普及が一気に進み、多くの子供たちが何時間やっても飽きないリアルなゲームや、何時間やっても金額が変わらないインターネットにのめり込むことができる環境が整いました。はっきり言って、僕自身もパソコン中毒です。家にブロードバンドが引かれた中3以降、受験期を除いて最低一日2時間はパソコンの前にいる生活です(大抵ニュースを見ていますが)。その時間を勉強に回せたらもっと成績が上がっただろうなぁということはいつも思います。こういったゲーム機やインターネットの普及というのも学力低下に影響する以上、学力低下はゆとりが原因だと決め付けるには無理があります。

ゆとり教育で公立のレベルが下がり、私立指向が強まり、格差が再生産されやすくなったと言われます。私立指向が強まっているのは確かですが、それがゆとり教育のためかと言うと甚だ疑問です。そもそも、先ほども指摘したように少子化によって子供一人当たりにかけられる教育費は増大しています。私立の敷居は大昔に比べれば低くなっているはずです。また、多くの親が公立校のレベルが低いと思うのは、選抜が甘いためです。

私自身はゆとりの方向性自体は間違っていないと思います。やはり、詰め込み偏重主義は良くない。最近のOECDの学力調査でも日本は応用力が低いとの結果が出ています。やはり「考える教育」というのは進めていく必要があります。ただ一点、私が指摘したいのは、日本のゆとり教育はこのような教育方法の転換を政策の中心に据えず、週休二日制だとか内容の削減など「分かりやすい改革」に重きを置きすぎたのではないかということです。本来、「考える授業」を実施するためには教師への訓練が欠かせません。上から詰め込むのは「これはこうやで」と教えればいい話ですが、考える授業では「ヒントをいかに出すか」ということが重要になるからです。しかし、ゆとり教育にあたって教師に体系だってそういう訓練をしたという話は聞きませんし、むしろ完全に現場に丸投げしているようです。それでは教育改革に意味はありませんし、教育の分量も減るわけですから、当然、学力低下につながる可能性は高くなります。やはり「考える授業を実施するためには、生徒が自ら考える時間が必要であり、その時間を確保するために指導分量を減らす」というのが本筋であって、文科省はその辺の対策が不十分だったように思います。(これは今の医学教育にも言えることではないでしょうか)

もう一つ、ゆとり教育の問題として、ゆとり教育を順当に実施した公立を親が嫌い、私立指向が強まったということが指摘されています。しかしながら、そもそも私が私立を目指した時を考えてみると、その理由は地区の公立中学が暴走族も多く、ガラが悪いことで有名だったから。多くの場合そうだと思いますが、指導内容云々の問題というよりは生徒を選抜しているか否かが重要なのです。優秀な生徒に囲まれれば、たとえ教師が指導不足であったとしても互いに競争し、塾に行って上を目指さざるを得なくなります。逆に周囲がどうしようもない状態であれば、自らもそれに追随して堕落していくのがオチでしょう(もちろん例外もありますが)。朱に交われば赤くなる。だからこそ、入試によって一定の学力以上があることが保証されている私立を多くの子供が目指すのです。何度も言いますが、学校選択の基準は私立公立の区別すなわちゆとりか否かの区別よりかは、生徒が選抜されているか否かが最も大きな問題です。従って、ゆとり教育が実施されている公立校であっても、学区トップの公立高校などではレベルは高いでしょうし、最近は少し復権の兆しが出ています。また中学でも選抜によって行ける公立の中高一貫校などは人気が非常に高まっています。逆に大学全入時代の昨今、選抜を殆んどされないような無名の大学は全く人気がありません。

これを私が強く主張するのは私立のトップ校であっても教師の質が飛びぬけて高いとは限らないし、面倒見はむしろ悪いぐらいだということを身で持って経験しているからです。成績が落ちても補習とかはほとんどないですし(休み期間中に下から20人程度が何回か受けさせられるだけ)、進路相談とかも非常に簡便なものです。さらに世間には私立トップ校なら塾に行かなくていいと誤解をしている人も多いようですが、そんなことは全くありません(全寮制などでは別ですが)。むしろ競って塾に行ってます。相対評価される成績の中でよりいいポジションを目指すためにです。他の生徒が塾に行って、自分のところは塾に行かずに成績が降下してくると、当然親は子供を塾に入れてもっと勉強させようとします。そうすると全体の成績が上昇します。そうするとさらにその中でいいポジションを得ようと、さらに特別な先生をつけようとする親が出てきます。私の同級生には津田塾大の英語の先生をつけている人もいました。こういう好循環が私立の好成績を支えているのです。結局、私立トップ校の進学成績がいいのは、教師の教え方がずば抜けて良いのではなく、周りのレベルが高いからに過ぎません。(逆に私立の中で一旦このスパイラル路線から落ちこぼれると、とても追いつけない差を感じてやる気をなくし、卒業する頃には雲泥の差が生まれます)

話がそれましたが、特に中学において公立から私立へという流れが強まっているのはゆとり教育の影響もあるでしょうが、本質的なことを言えば、公立中学の入学時に選抜が行われていないことが問題なのです。その点、学力別クラス編成や選抜を行えば当然公立中学の人気も高まるでしょう。ただ、公立は字義通り政府が運営する学校ですから政治の影響を受けやすい。そういう格差を認めるようなことが特に義務教育の領域において進むかどうかは不透明です。だからたとえゆとりを元に戻しても今後とも私立中学や中高一貫校の人気は高まると思います。

最近では首都圏では受験競争が激化して6人に1人が中学受験をしているそうです。私立中学に受かれば万々歳ですが、落ちて公立に行った子供は悲惨みたいですね。地区は同じなので小学校の同級生はその子が受験をしたことは知っています。なので公立中学では「どーせ、ここには来たくなかったんだろ」と言ってイジメを受けるようです。やはり公立中学も地区によるしばりを無くし、小学校からの完全なエスカレータ方式を改めるべきかと思います。そうしないとこの問題は解決しないと思います。

ゆとり教育を見直す前に、もっと根本的なシステムを見直したらどうか、というのが私の意見です。

教育は重要です。僕自身も後輩の教育には熱を入れてやってきたつもりです。中1に三角関数の概念を教えたりとか普通にやってました。クラブでの技術者養成のためでしたけれどもね。分からなくてもいいから進んだことを見せたり表面だけでも勉強してみるということはいいことだと思います。やる気が出るじゃないですか。もっと先にやることを見ると。そのために基礎をしっかりやっておこうとも思う。総合学習の時間というのはそういう目的のために使うべきこと。詰め込みに使うより実はその方がいいんじゃないかと思います。農作業や工芸といった体験や生きる力にこだわらず、大学の研究を見学したり、実験したり、先輩の話を聞くというだけでも面白いんじゃないかと思いますけどね。

ゆとりはゆとりでも違ったゆとりの仕方があるということが、今の世論からは完全に忘れられているような気がしてなりません。