NHKの教育問題討論に失望

「日本のこれから」で教育問題をやっていたのですが、討論のレベルの低さに失望してしまいました。もちろん、「読み書きそろばん」という生活視点からの教育のあり方というのもドメスティック産業にとっては重要ですが、日本で唯一成長を続けているグローバル企業に働く人を養成するためにはそういう視点では極めて不十分です。

さらに失望したのは榊原氏が「応用力は知識の中にある」「応用というのは知識の組換えを変えること。だから知識がなければ応用力はつかない」という趣旨の発言をしたのに対して、出演している公立の中高生がアホっぽく「不満」の札を揺らして不満の意図を表明したことです。この場面が出てからうちの家族は「レベルが低すぎる。いかに勉強する量を減らすしか考えていない」と異口同音に失望してテレビを消しました。出演しているのが私立の難関校の生徒ならこうはならないでしょう。

私は応用力は連想力だと思います。たとえばAという未知の問題を解決しなければならないときに、Aが異分野のCとどこか似ている点があると気付くことができれば、異分野において習得したC→Dという解決法をA→Bという解決法に当てはめて応用することができます。しかし、C→Dという解決法やCそのものを知らなければいつまでもA→Bの解決法は見つからないでしょう。知識のデータベースから似たものを引っ張り出して目の前の問題に当てはめることこそが応用力であり創造力であり、また発想力でもあるのです。

私もバイトですが教育産業の末席を汚しているので分かるのですが、この原理は数学に非常によく当てはまります。中高の数学では授業で習うのはいわゆる典型的問題と呼ばれる解法がパターン化された問題ばかりです。しかし、考査や模試、入試ではこういう問題がそのまま出されることはありません。単なる数値替えであることもたまにありますが、どこかにひねりがあり、本質に気付かないと解けない問題が多く出題されます。そのときに様々なパターンの問題を真面目に解いてきて、その本質が見えている人にとっては、数式の構造を見たり、少し考えるだけで「この問題はあのパターンの問題とこのパターンの問題の融合だ」と気付いて解答することができますが、真面目に勉強していない人間にとっては本質が見えていないし、パターンも知らないので解答できません。

もちろん、パターン問題の解法だけを丸覚えしても応用問題が解けないのは確かです。しかし、これを以て知識偏重教育が不適切だと言うことはできません。なぜならばそれはパターン問題から何か本質を学ぼうという姿勢が欠けたまま勉強を続けたことによるものであり、パターン問題さえ知らなければ応用問題は愚か、パターン問題さえ解けるはずがないからです。知識は応用の最低条件なのです。パターン問題は解けるが応用はできないと困っている人には「それぞれ解いたパターン問題で何が本質かを見極ようとする意識を持て」というアドバイスをしたいと思います。

たとえ話をしましょう。何らかの形で筋トレをやったことがある人は多いと思います。筋トレで筋肉を増強するには何が必要でしょうか?私も筋トレを始めた頃によく犯したミスですが、普通になんとなくベンチプレスを動かしているだけでは大して筋肉はつきません。体の防御機構からか色々な筋肉に力が分散され、目的とする筋肉に強い負荷がかからないからです。しかし、「この筋肉を鍛えるぞ」と意識を持ってそこに力を入れるようにすればその筋肉に強い負荷を集中させることができます。その結果、細胞レベルでの筋破壊が起こり、その修復過程で筋肉が増強されると考えられています。(医学的視点かは分かりません。あくまでトレーニングの視点からです。ただし解剖で学んだ筋肉の知識は少なからず役に立っています)

これと全く同じことがこの場合にも言えると思います。「ただ何となく解いている」だけでは学力は向上しません。この問題で何を学ばせようとしているのか、何が大事なのかを読み取る意識を持たなければ、試験問題や応用問題を解くことはできないのです。すなわちパターン問題から意識して「知識」を得ることが大切なのです。おそらく、パターンは解けても応用が・・・という人は、学ぶという意識が足りないがゆえに本当の「知識」がついていないのではないでしょうか。知識偏重なのではなく、実は知識が足りていないのです。

かく言う私も高1ぐらいまではそういう典型例でした。だから数学も学年で下から30番とかざらでした。幸い補習には引っかかりませんでしたけどね。でも、高2からテスト範囲の問題で重要そうな問題に一言、「〜がポイント」というのを書き込むようにしたのです。そうすると一気に学校の数学の成績が上がりました。高3のときには駿台の全国模試で数学が100番以内に入ったこともあります。今や苦手だったはずの数学を中高生に教えています。

ともかく、応用にとって大事なのは「知識」です。知識なき応用は考えられません。詰め込みすぎて、考える時間や真の知識を得る暇がなくなるのは問題ですが、適度に考える時間を与えられていれば知識教育は最大限の効力を発揮します。人間得手不得手もあるので、知識の乏しい人をバカにする気は全くありませんが(というか人間知らないことだらけです。私も知っていることなんて僅かだといつも感じます)、知識を得ようという意識のない人は私は軽蔑しますし、そういう人にだけはなりたくない。その意識はこのブログのタイトルにも表れています。中学から高校1、2年頃までの失敗の痛烈な記憶が未だに私の中にはあるからです。

あの番組を多くの中高生が見ていないことを切に願います。榊原氏の正論に異口同音に不満を表明する様子では日本の将来が思いやられます。まぁ、こうやって不満に唱えている間に、努力して知識を着々とつけている中高生もいるはずですから、最終的に大きな格差が生じて当然だと思います。