遅いかもしれないが裁判員制度に反対

先日、母校に行ったときに後輩のみんなと少し話をしたのですが、後輩たちは「裁判員制度は最悪」「あんなのやめるべきだ」と口々に言っておりました。さすがは優秀な後輩たちです。

医療でもそうですが、エリートが多く、高度に専門分化された分野に興奮したマスコミや一般国民が無理やり押し入って、うまくいった例はほとんどないでしょう。一時的に問題は解決したように見えても、さらに深刻で致命的な問題が発生するのが世の常です。医療崩壊官製不況なんてその最たる例ですね。2009年から始まる裁判員制度も同じ轍を踏むのではないかと私は危惧しています。

市民とプロになお隔たり 模擬評議で浮き彫り
そもそも国民の人権を奪う国家権力は慎重に運用すべきもの。裁判というのは司法ですから三権の一翼を担うれっきとした国家権力です。当然、その権力行使は慎重で合理性があり、また個人感情を可能な限り抑制したものである必要があります。そのため、今日まで法曹界という勉強に勉強を重ねた思慮ある優秀な専門家が、法律や事件を慎重に検討し、議論し、最終的に判決という形で国家権力を運用してきたのです。ところが裁判員制度はこの当たり前の原則に真っ向から逆行する制度です。すなわち、勉強もしていない一般国民が、法律の論理性や合理性を軽視し、感情によって巨大な国家権力を振りかざしうる制度なのです。

確かにこの制度によって一時的に国民感情が裁判に導入され、裁判に対する違和感は少なくなるかもしれません。しかし、日本は大陸法の原則がある一方で、判例法源として相当な力を持っています。裁判員制度によって大きくゆがめられた判例が、裁判員制度の適用対象とはならない裁判や類似の裁判において予期せぬ悪影響を与えられることは十二分に考えられることです。裁判官の思慮ある判決をもってさえ医療は崩壊の危機にさらされています。ここに一般国民の感情がお構いなしに混入するとすれば、その悪影響は計り知れません。まさに国家の基盤的システムに致命的なダメージを与え、国民による逸脱者へのリンチが横行しうる。この制度は司法への信用、国家への信頼を大きく損ねるばかりか、最悪の場合、司法の崩壊につながる可能性さえ否定できないのです。

可能性は低いとは思いますが、もしそういう世界になったとすれば日本という国はあっという間になくなってしまうのではないかと思います。