いつも疑問に思うコンプライアンス思想

最近なんだかんだでコンプライアンスコンプライアンスとうるさいのですが、私はいつも疑問に思っていることがあります。
本当にコンプラ思想は社会の役に立つのか?
何度もこのブログで指摘してきましたが、日本国民は伝統的に江戸時代からのお上思想が根強く、法律を常に自分たちでupdateしてツールとして使いこなそうという考えよりも、上から与えられたルールとしてそのまま受け入れる傾向が強いわけです。だから「コンプラだ、コンプラだ、守れ、守れ」となる。「守れ」と言うばかりで「現代の実態に合わないから変えよう」という発想は出てこない。法律を作り運用する官僚にとっては、ある行為が法に適合していなければ「違法だ、法律違反だ」と叫んでおけばいいわけで、これほど容易く制御できる国民は世界中を探してもそういないはずですが(その甘さが官僚制度と政治の腐敗を招いた)、果たしてそのような盲目的な法令遵守が、世界における日本の発展、社会の発展に貢献しているかと言えば、私は否定的な考えを持っています。

法令遵守が日本を滅ぼす」で有名な郷原氏が日経ビジネスオンラインでこんなことを述べています。

 私が言いたいのは、むしろ「遵守」という言葉の方に問題があるのではないかということだ。「いいから守れ」「つべこべ言わずに守れ」という命令を含むこの言葉が出てくると、「なぜそれを守らなければならないのか」を考えることをやめてしまう。それについて議論することもやめてしまう。
 「決められていることをそのまま守ればいい」という考え方がその法令をどう活用するのかを考える姿勢を失わせてしまう。そこに、コンプライアンスを「遵守」という意味でとらえることの根本的な問題がある。

法律業界や法学部関係者とたまに話をすると、「そもそも違法なことはしなければよい」というような考えを聞くわけですが、まさにこれが法律を上から与えられたものと解釈して、絶対的に捉えている証拠です。しかし、郷原氏も指摘していますが事業の創成期には、違法スレスレのことをしなければある程度まで成長できないケースが多いというのも事実であり、「そもそもしなければよい」というような因襲的な「事なかれ主義」で、このスピード化されたグローバル世界を生き残れるわけがありません。事実、1990年代以降グローバル化が進むにつれて、旧来的な法律思考のままで維持されてきた規制の弊害が各方面から指摘されています。彼らの思考過程の変革こそ日本の成長には必要だ、私は本気でそう思います。当然、そういう事なかれ主義の人々が行政官のトップになって国民を制御するようになれば、社会もおかしくなるわけです。

あと、これは追加ですがマスコミも何かと「決められていることをそのまま守ればいい」という考えばかりが蔓延しています。叩くのがお好きな連中です。「法律違反、法令違反」とは叫ぶものの、「法律がおかしい」というような意見はテレビからは出てきません。彼らは、そう考えた場合は「官僚が悪い」と叫びます。彼らと法律家は一部では結託して国民を誤った考え方に導いている、と批判されても仕方がありません。マスコミの考える倫理はお上意識に基づいた、古い朽ち果てた倫理であることに疑いの余地はありません。法をツールとして使いこなすという視点が全くないわけです。マスコミの場合、「悪いやつ」を祭り上げればそれで視聴率が上がるので、仕方がないかもしれませんが。

コンプライアンスというのは法令の盲目的な遵守ではなく、法と人間、社会の間の相互のコミュニケーションの一部であるべきだと私は思います。人間や社会が激動する時代には法も柔軟にかつ前例に囚われることなく変化していかなければ、相互の歪みが大きくなるのは当たり前です。

さて、なぜ私がこんなことを言うかというと、実は医学界、少なくとも医学生の間でも似たような現象が発生しているからです。最近はEBMの時代になって、内科外科を問わずエビデンスに基づいたガイドラインというものが作られるようになりました。拘束力はありませんが、一種の業界内の法です。チュートリアルの症例でも、基本的にガイドラインに基づいて、診断や治療を決めていくのですが、中には微妙な症例があって、診断に必要な検査が足りていなかったり、ほとんど基準値に近いのだが、僅かに値が外れていたり、そういうのがいっぱいあります。その中で必ずこういう議論が巻き起こるのです。「これはガイドラインに合致していないから○○病ではない、××治療はすべきではない」「でもほとんど基準に近いし、主訴や身体所見もそれを支持している。とりあえず○○病らしいと考えて、××治療をすればどうか」
昨日の発表会でも、複数の班の間でこの議論に1時間近く費やされていました。

医学部は人間という得体の知れないものを扱っているので、法学部のように机上の論理がそこまで絶対的に捉えられることはないのですが、自身もどちらかの側に加担しつつ、なんか「抜けている」というか、「違うなぁ」という印象を持つのです。よくよく考えたら検査には一定の誤差というものがあるわけですし、そもそもガイドラインを決めるときに何を以て検査の基準値を決めたのか、その議論過程を精査してみないとその基準値を絶対的に捉えていいものかは分かりません。検査におけるカットオフ値というのは疾患群と非疾患群の検査値のdistributionを比較して、ある値でカットオフ値を決めてみたときに、αエラーとβエラーがどのくらい発生するかを吟味して、たとえばスクリーニング目的であれば、βエラーができるだけ少なくなるように、確定診断目的であれば、αエラーができるだけ少なくなるような値を以て決めるべきものです。ガイドラインの基準値というのが、果たしてそういう観点で決められているのか。私は議論の過程を見たわけではないので分かりませんが、そういうプロセスを知らずに、ガイドラインを上から与えられたルールと捉え、些細な値の違いで議論しても仕方がないし、患者のためにはならないように思います。もちろん、ガイドラインが信用のないものだと言っている訳ではありませんが、少なくとも制定法と同様の捉え方で扱うのは、大きな問題があると私は思います。

現段階で、解決策として私が医学生としてガイドラインを作った学会に要請したいことは、ガイドラインの各項目について「この項目基準はどういう目的で作られた、基準の信頼性はどのくらいである」といった趣旨をちゃんと説明してほしいということです。そして、それをネット上に無料で公開して欲しい。広く使われて吟味されてこそガイドラインとしての信頼性も増すのに、なぜ書籍や機関誌でしか発行しないというガイドラインが未だにたくさんあるのでしょうか。


日本のコンプライアンス思想にはまだまだ問題があります。お上志向が抜けてない。常にあらゆることをupdateしていく姿勢が必要です。