田母神論文と井戸発言の意味

マスコミをにぎわしている二つの発言。日本は自由な国家なんだから、言いたければ何でも言えばいいと思う。どこかの国とは違って。ただし、私は多くの人々とは違って、「これは個人の思想の問題だから何でも言えばいいのだ」という考えで彼らを支持しているのではない。
考えてもみよう。もし、この日本がアメリカに占領されていた頃に戻ったとすれば、彼の口からそんな発言が出たであろうか。いや、出るはずはない。まずアメリカが許さないし、敗戦で打ちひしがれた国民がそんな発言を許すわけがないからである。彼自身も自らの命が危ないと分かっているからそんな発言はしない。
しかし、戦後60年以上経った今ではどうだろう。田母神氏が国会での参考人質疑で発言したように、インターネット上では半数近くが彼を支持している。社会の中にそういう意見をタブーとは考えない雰囲気が出てきたからこそ、彼のような高官からそんな意見や発言が出てくる。つまり、彼の意見は実はいまの社会を映し出す鏡なのだ。

おそらく、旧社会党共産党系の思想を持つ人々は、「それなら、そういう雰囲気になる社会がおかしいのだ。教育で修正していかなければいけない」と言うだろう。しかし、私はこれは間違いだと思っている。社会は常に変化する。外的な要因、内的な要因、そして時間の経過。1億人以上も人がいれば、当たり前だが何らかの変化は必ず生まれる。陰謀がどうのというより、システムとしてそういう変化が生まれるよう、神はこの世界を設計なさったのである。だから、私は決してこの変化を無理にとめるべきだとは思わない。むしろ社会が生きている証しとして歓迎するべきことだと思う。

この動きが最終的に何を生むか、それは誰にも分からない。もしかしたら、いわゆる「右傾化」とつながって日本を再び戦争に導くかもしれない。そうだと感じれば、その人自身がこの動きを別の方向に向かわせる、新たな方向性を少しずつ加えていけばいいのだ。社会のベクトルは一人の力ではなかなか変えることはできない。しかし、社会のベクトルのもとは社会を構成する個人のベクトルである。自分の思いどおりには行かないかもしれないが、何でもいいので何か動き(投票でもよい)を起こすことが一番大事だ。もし、自分の力で社会を思いどおりに変えられると考えているのであれば、それこそ無知なんだろうと私は思う。

ちなみに個人的には田母神論文には疑問を感じる。日本は当初の意図はどうであれ、歴史的な視点でみれば結果的には侵略国家であったのだと私はおもう。

井戸発言にはある程度同意する。たしかに神戸で避難生活を体験した人々にとってはあの発言は不快かもしれない。しかし、私も震災自体は経験したし、倒れた高速道路をこの目で見てショックも受けが、あの発言をそこまで批判しようとも思わない。なぜか。13年経ってあの震災を客観的な視点で振り返ってみると、実はあの震災をチャンスにしていた国や地方がいっぱいあったのだ、という現実を痛感させられるからだ。かつて神戸は世界でも有数の貿易港だった。多くのコンテナクレーンが立ち並び、大型貨物船が次々と入港し、活気にあふれていた。しかし、震災による港湾機能の長期停止を機にその多くを釜山など諸外国に奪われてしまった。
いま、神戸のコンテナ取扱量は震災前の9割近くまで回復している。一見すると完全に復興したかのようにも見える。しかし、この13年間にアジアで急激に進んだグローバル化によるアジア全体での貨物取扱量の増加を鑑みれば、復興したとは言いがたい。また、確かに貨物取扱量は回復してきているが、船から船への積み替え、すなわちトランシップ取扱量は激減したままで、かつてのハブ港としての機能は震災により完全に失われたのだ。
釜山と神戸の比較
震災を経験していない関東の人々には当然、その悲しみは分からない。しかし、当事者である神戸市民にも実はそういうことを知らない人がかなり多い。むしろ、自らが経験した悲惨な光景や避難生活のことが先に思い浮かばれてしまい、そういうところまで目を向けるだけの余裕がないのかもしれない。この発言が関東の人間にも神戸の人間からも批判されるのはある意味、当たり前だ。しかし、震災の被害を経験しつつも、神戸の被災と復興を少し離れた視点から客観的に見てきた人々には、幾分か理解できる節もある。もっとも、東京がやられれば神戸がチャンスと考えていても、今の行政システムでは日本の機能全体がストップしてしまい、チャンスを生かせない可能性は高いのだが。

私は事故や事件の被害者の言うことが、すべて正しいという日本の「常識」には以前から強い疑問を感じている。当事者の悲しみやつらさはよく分かるが、悲しいかな、人間というものはそのつらさゆえに視野が確実に狭くなっているからだ。私は、物事というものは全く経験していない人間には何も分からないが、当事者も決して正しく理解しているわけではなく、巻き込まれつつも少し遠巻きに見ていた人間が一番よく理解しているのではないか、と思う。実際、自分が当事者になった事件を後で振り返ってみれば、周りの意見が正しかったというケースが結構多い。その原因を探っていくと、やはり当事者としての過剰な自意識と、強い感情が引き起こす視野の狭窄という現象にぶち当たるのだ。

古来から、周囲の意見をまったく聞かない宰相というのは失敗することが多い。自分なりに頑張ってはいるのだろうが、当事者であるがゆえの自らの視野の狭窄という現象に気付かなかったのだろう。物事を沈着冷静に分析できる補佐の存在と、自らの意見と食い違ってもそれを聞き入れる宰相の器の大きさ、その組み合わせがいかに大事かということを歴史は教えてくれている。

普段お世話になっている神戸の人々を批判する気は全くない。不快に思う気持ちもよく分かるし、自らが避難体験をしていればそう思うだろう。しかし、あの震災で長期的あるいは客観的には何が起こったのか、そしてあの不幸な震災を絶好のチャンスにした人々がたくさんいたのだ、という紛れもない事実から目をそらすのは、それこそ貴重な経験を無駄にすることになるのではないかと私は思う。