常識・考

麻生総理の「医者は非常識な人が多い」発言ですが、僕自身はある程度は同意します。実際、医学部は私も含めて変わっている人が多い。変わっている、というのは普通とは違うということですから、「世間の常識」を「普通」と捉えれば、「変わっている人が多い」というのは「常識に非ず」すなわち「非常識が多い」ということにもなります。その点で言えば彼の発言は正しい。

ただし、問題がないわけではない。「非常識である」と聞いて、こういう柔軟な発想が出来る人ならば誤解が少ないのでしょうが、いわゆる固定した偏見がしみついた、いわゆる「常識」を持った人々がこれを聞けば、彼らの凝り固まった頭の中では「非常識=悪者」という等式が成立しているので、麻生発言は「医者は悪者」という風に捉えられかねない。そういう誤解される危険性をもった発言であるということはできます。


私は常識は別に多少欠落してもいいと思う。大抵、新しい発見や発想というのは非常識なところから生まれる。これは営業職や事務職には分からないかもしれないが、研究職や経営企画を行う部署の人々には頷けるはず。非常識な人は普段はちょくちょく「常識」を重んじる人との間でトラブルを起こすかもしれないが、いざというときに他の人が考えもしない非常に大胆な発想をしてくれることが多い。マネージャー、すなわち管理職の仕事というのは、そういう面白い発想を拾ってきて形にすることにある。それができないのならマネージャーとしては失格。個人の能力を時と場合に応じていかに最大限に引き出すかというのがマネージャーの役割なのだから。

かつての日本には宗教が存在した。江戸時代にはお寺が役所の代わりを担ったし、人々は神社を大切にし、神を祀った。祭りがくれば神のもとで、儀式のごとくドンチャン騒ぎをして財産を使い切った。しかし、明治以降「富国強兵」「脱亜入欧」の掛け声のもとで、これらの宗教(神道・仏教)が毛嫌いされるようになって以降、日本の社会規範というのは、寛容さを兼ね備えた「宗教」ではなく、その時の「常識」に基づいた「道徳」に頼るようになったのだ。

しかし、何百年も脈々と受け継がれ、また受け入れられてきた「宗教」とは異なり、「道徳」のもとである「常識」というのは非常に危うい存在である。「常識」は常に移り変わるからだ。平安時代の「常識」と今の「常識」は全く異なるし、日本の「常識」とアメリカの「常識」は当然違う。その矛盾というか、不合理さを指摘されれば、「常識」はその正当性を完全に失ってしまう。そうなれば「道徳」も正当性をうしない、「道徳」だけに社会規範の形成を頼ってきた日本の社会秩序は完全に壊れてしまう。そこで、社会秩序の維持のために、「常識」を当たり前のこととして受け入れさせるかが課題となる。危うい「常識」に疑問を持たせないために幼少から刷り込みを行うのだ。現代の日本の教育の目的というのは、個性を持った多様な人間を、いかにして「道徳」と呼ばれる、「常識」でガチガチに固められた一つの規範に当てはめていくか、ということに重きが置かれている。

たとえ話をしよう。4人の前にケーキが2つある。1人につき半分ずつ食べなさいというのが、今の日本の教育。道徳に基づいた教育。しかし、4人のうち1人が大食いだったらどうだろう、ケーキが嫌いな子がいたらどうだろう。4人が満足するのなら、大食いの子が1個食べて、残りの3人で1個を分けてもいいよ、という発想にはならない。

次の例はとある本に書いてあった例。
疲れている高校生が座席に座っていた。老婆がやってきた。高校生は「申し訳ない」と思いながらも自分がしんどいので席を譲らず寝たふりをした。
道徳は結果だけを重視し、高校生を糾弾する。しかし、宗教は「申し訳ない」と思ったことを評価し、慈悲を与える。どちらがより豊かだろうか。考えて見てほしい。

実は障害者に対する教育上の扱いでも同様のことが言える。最近は少しマシになってきた感はあるが、日本では障害を生かすのではなく、障害を直すことに重きが置かれてきた。そして障害が直りきらなかった場合、障害者は「非常識」として処理され、差別されてきた。しかし、実際に障害者とつき合ってみると分かるが、彼らには彼らの才能があり、個性があり、姑息な我々が持たない、何かとても豊かなものを持っている。ある意味、うらやましいし、これを生かせたらどれだけ社会の役に立つだろう、といつも思う。ちなみに宗教が残っていた江戸時代は、障害者には比較的寛容な社会だったようだ。

少し昔の日本では、都市が未発達で地域が一体となるコミュニティが成立していたし、幾分かは宗教も残っていたため、「常識」に基づく「道徳」が社会規範であっても、ある程度うまくやっていくことが出来た。ある程度、常識が一つの方向性に集約されていたからである。しかし、昨今グローバル化の進展で「常識」や価値観が非常に多様化している。何を是とし、何を否とするか、人によって大きく違う時代がやってきた。様々な情報や文化があふれ、幼少からの「道徳」の刷り込みがもう効果を奏しない。社会規範が崩れ、奇妙な事件が続出するようになった。

そこで一部の国会議員は「道徳教育」を充実させ、さらに刷り込みを強化しようとしている。しかし、「道徳」の存在基盤である「常識」そのものがすでに価値観の多様化によってグラグラに崩壊しているにもかかわらず、いまどき「道徳」を強化して何の意味があるのか。外国人が次々と日本へやって来て、日本の学生にマリファナを教えている昨今のグローバル社会において、一つの価値観を押し付けようとすること自体、無茶なことだ。効率も悪すぎる。

私はグローバル化が進展し、常識が崩れてきた今こそ、社会規範として宗教をもう一度見直す時期だと考えている。「常識」だけが社会や規範の基準だと考えるのは時代遅れだし、井の中の蛙である。ましてや「常識」か「非常識」かで人間を判断するのは馬鹿げている。教育によるインプリンティングがもたらした「常識」の呪縛から抜け出し、世界の中には「常識」ではなく「信仰」を社会の規範にする地域がたくさんあるのだ、という現実を見ようではないか。