本屋で見つけた本

三宮のジュンク堂に行くとこんな本を見つけました。

ネットで暴走する医師たち

ネットで暴走する医師たち

手にとって読むと・・・・このブログからもリンクしてある先生方のHNがいっぱい!(最近はあんまり読んでませんが)あまりにも身近というか、どこかで見た記憶のある引用が多くて、つい声を出して笑ってしまいました。
5分ほど立ち読みした範囲ですが、一部の医師がネット上で暴走しておかしくなっていると指摘する内容のようです。私が「医療崩壊」問題について最近感じているのと同じような疑問が提起されていて、概ね賛同できる内容でした。
ただ、一部気になる記述もありましたね。医療事故について、著者は小松秀樹氏が「医療の限界」などで指摘したように「患者は医療に100%を求めている」ということは決してないのだ、むしろ最近の医療事故で患者はいつ事故に遭うか非常に不安に感じていて、その結果が医療従事者へのバッシングにつながっているのだ、と指摘しています。
確かにその通り。おそらく99%以上の国民は「医療が100%でない」ということを、頭では理解しています。しかし、頭で理解していても不安で仕方がない。この現象は患者が「医療が100%でない」という現実を受容できていないことによって起こります。つまり、患者の心の奥底には「医療は100%であるべきだ」という考えが未だ存在していて、それが理性で理解した「医療は100%ではない」という現実と、内部で葛藤を起こした結果、強い不安が生じている、そのように解釈できるのです(精神科的にはもう少し別の用語で説明できるのだとは思いますが)。よって、「患者は医療に100%を求めているわけではない」という著者の指摘は間違っていると私は思います。

では、どうやったら心の奥底の考えを変えられるのでしょう。私は自分の経験に照らして、何度も死やご遺体を見ることが「医療は100%ではない」「人間は死ぬのだ」ということの受容に役立つと思います。医療の結果や死という現実を自分の目で見るのです。私は医学生になるまでほとんど人の死に接したことはありませんでした。幼い頃に数回程度です。しかし、医学生になってから親族を連続して亡くしたり、数多くのご遺体の中で解剖をしたり、行政解剖や病理解剖を見たり、死ぬかも知れない病気の子供たちと触れ合ったり、かなり死を身近に感じてきました。そうやって分かったことは、今まで頭の中でしか理解できなかった「命は大切に」、「人間は死ぬ」、「医療には限界がある」ということがなんとなく感覚として理解し、受容できるようになりました。今だから分かることですが、頭の理解と感覚での理解というものは全く違うものです。私にとって、これらの理解は医学部に入って得た大きな収穫の一つになっています。

最近は死や遺体をタブー視する風潮が強くて、多くの人は死を身近に感じることはありません。若い人ならば尚更でしょう。でも現実には、死はすぐそばで起こっています。単に隠されて見えなくなっているだけなのです。昔は死をあまり隠すものがありませんでした。ですから死というものが自然に受容できたのでしょう。しかし、現代の人にとっては「死」は遠い想像上のものでしかありません。そんな中で突然親しい人の「死」というものが降りかかれば、何かのせいにして、こじつけたくなるのも当然です。

私の提言は「死をもっと身近に」ということです。今後、高齢化の進展により死に出くわす機会はますます増えます。これを隠そうとせず、子供たちに死のありのままを見せるのです。見世物のようにすると「死者を冒涜している」という批判もあるかもしれません。しかし、人間はいつか死にます。死の理解は、結局は自分や自分の親しい人のことにもつながります。表面上は見世物のようであっても、彼らの心の中には見世物以上のインパクトを残すでしょう。死者に対して決して失礼ということはないはずです。

あと、私が実践しているもう一つのことは、誰かととても親しくなったら、その人が事故で死んだり突然いなくなった時のことを想像しておくことです。自分は死を受け入れられるだろうか、何が出来るだろうか、そういうことを妄想でいいので考えておくと、いざというときに幾分気が楽になると信じています。実際にそういう事例が未だ起こったことがないので、効果があるかはなんともいえないのですが。

ともかく、最近の医療界の論調に素朴な疑問を感じたらこの本を手にしてみるといいかもしれません。