優秀な医学生ほど空気が読めない?
うちの大学のチュートリの成績は、各科ごとに1時間×3回設けられているチュートリアル授業(症例をベースとして問題抽出、発表、ディスカッション等を行う)での評価が全体の60%を占め、残りの40%は毎週末にある試験やレポートの成績によって評価されます。従って、チュートリアル授業を真面目に出席し、活発に発言していれば60%近くの点数が確保でき、テストが悲惨な結果になってもまず落ちる心配はないという有難い制度です。普通の人ならば、こんな甘い良心的な制度なら、みんなが活発に発言して全員60%近くを確保した上で、安心して試験を受ければいいと思うでしょう。
しかし、不思議なことにこのことが分かりきっていても、現実の世界では活発に発言する学生の群と、黙り込んでほとんど発言しない学生の群がはっきり分かれてしまうのです。以前紹介した「2:6:2の法則」なんでしょうかね。それはともかく、7人の班では2、3人ぐらいが毎回ひたすらしゃべって、残りの4、5人ぐらいは指名されない限りしゃべらないというのが現実です。
ただ、話をよくよく聞いてみると、すべての発言をしない学生が発言する気がないので黙っているわけではなく、中にはひたすらしゃべり続ける学生が突っ走って他人に発言する隙すら与えないので、発言したくでも発言できない学生も多いようです。しかも、しゃべり続ける学生は大方優秀で知識豊富なので、課題となりそうなことを全部一人で列挙してしまい、他の学生は発言できることが見つからないのだとか。
私自身は発言しまくるタイプの人間ですが、同様にひたすら発言する比較的優秀な学生の群(全学生の20%前後)を見ていると、私も含め半分ぐらいがいわゆる「空気の読めない」学生じゃないかという疑念を持つことがあります。
例を挙げるときりがありませんが、「他の学生が発言したそうにしているのに気付かない」、「症例シートを読み終わると、間をおかず独り言を言うように解釈を指摘し始めてそのまま1分以上しゃべり続ける」、「特定の二人で延々と論戦を繰り広げて他の学生やチューターがあきれているのに気付かない」。そんなのはザラにあります。
さらによく観察していると、こういう問題(?)行動を起こす学生の多くは、知識が相対的に乏しい学生のために彼らが指摘できる項目を残しておいてあげる、という配慮ができないケースが多いですね。発言権を順番に回されたときに、次の人に発言できることを残さず、次々と問題や課題を指摘しまうという行動にそれがよく表れています。他人への配慮という意識が全くないわけです。
もちろん、アメリカなど欧米文化では「発言しない=バカ=自分が悪い」なので、これでいいとは思いますが、少なくとも日本の文化では、たとえ意見を持っていても、多くの人が「空気を読んで」発言するかしないかを決めているので、発言し続ける人ほど「空気」には注意する必要があると思います。
普段「空気を読めない」ことを是としている僕が、なぜこんなことを言うのか。これにはちゃんとした理由があります。もちろん、2、3人の優秀な人が議論をすれば、だいたい本筋を離れずに議論をすることは出来ます。議論も彼ら特有の「細かいところにこだわり」始めない限りは、スムーズに進みます。しかし、一方でいくら優秀な人間でも注意力には限界というものがあり、「この病気だ」という先入観をもって議論を進めるため、中には症例シートにチラッと書いてある重要なことを見落とすことがあるのです。その点、知識が相対的に乏しい学生の方が先入観を持たず症例シートを見ているので、意外と彼らが発言する内容の中に「お宝」が眠っていることがあります。もっとも大抵本人はそれが「お宝」であることに気付いてはいないんですけどね・・・。積極的な学生が作り出す価値も重要ですが、積極的でない学生が作り出す価値というのも大事なのです。
実は、かくいう僕自身もこういうことに気付くことは苦手なので、意識的に、しゃべり続ける同級生に茶々を入れてみたり、自分がしゃべっているときは一定時間経ったら一旦発言を終了させたり、「皆さんの意見を聞きたい」という一言を入れるようにしています。まぁ、興奮すると制御が効かなくなることもあるんですけどね。そこら辺は今後の改善課題です。
結論です。
自分のことは棚に上げて色々と観察をしてみると、優秀な医学生には、空気が読めない(don'tではなくcan't)、他人への配慮が出来ない、細かいところにこだわる学生が多いのではないか、と最近思うようになりました。もしかしたら、彼らも私と同様、発達障害のスペクトラムを持っているのかもしれません。もちろん、すべての優秀な学生がこれに当てはまるわけではありませんが、少なからずいると思います。