ルールや作法には常に懐疑的であるべし

安全学や失敗学という学問の中では製造業の不祥事に関して次のような説が唱えられています。

どこにでも危険があるということを常に認識しながら、試行錯誤(小さな誤り)を繰り返す

度重なる失敗から経験が積み重ねられ、何をすれば危険かということが現場で共有され、安全な手順が構築されていく

完成した安全な手順のみが継承されていき、安全に大量の製品が製造可能となる

安全な手順しか知らない世代が増え、なぜそのような手順が構築されたかを考えなくなる

効率化や怠けたい意識から手順の一部を省略したり、周りの環境が異なって手順が時代遅れになっているのにそれを守り続ける(それしかしらないから)

大きな事故や不祥事を起こす


このプロセスは「ルールによる統治」がいかにして間違いを犯すかというプロセスと非常に似ています。初期に法やルールをつくる際は、まずルールが必要なのかという議論から始まり、その是非が慎重に議論され、弊害があればすぐに直そうとする傾向にあります。ところが、徐々にルールが確立され、広く受け入れられるようになると、人々はそのルールがなぜ制定されたか、そのルール制定以外にどんな統治法があるか、ということを考えなくなります。

しかし、悲しいかな時代はどんどん変わっていきますし、周りの環境や価値観も常に変化しています。ルールも当然変化していかねばなりません。そのルールはもはや必要でなくなっているかもしれない。ところが、そのルールで育ってきた人はそのルールしか知らないので、ルールが間違っているとか、ルールを変えるという発想がありません。そして当然のごとく、ちょっとした事がきっかけで大きな間違いが起きます。

それだけでもバカげた話ですが、さらにそういう人々が愚鈍なのは、「事故の原因はルールの順守が不徹底だからだ」という本末転倒な結論を事故から導き出してしまう傾向にあることです。たしかに多くの「間違い」の中には小さなルールの逸脱がありますが、それが果たして事故の本質なのでしょうか?硬直的なルールやそれを守らせようとする圧力自体が人間に無理を強いていないのか・・・そういう見方が必要なケースが多々あります。にもかかわらず、いまあるルールに固執すれば待っているのは不祥事の繰り返しと「組織の死」です。

いまある法に対して常に疑念をもち、自ら考え、必要とあれば積極的にそれらを逸脱するという運動は、一見、法治国家の根幹を揺るがすように見えて、法治国家の長期的なゴーイングコンサーンには必須です。

私は「ルールは守りなさい」と教育するのは間違いだと思っています。「ルールの趣旨と目的を理解しなさい、ルールの妥当性・必要性を常に懐疑的に吟味しなさい、そのうえで納得できるルールは守りなさい」そうやって教育するのが、社会や大人の責任というものでしょう。