法律とは虎の威を借る狐である

法律がどのように作られているかを知っているだろうか。政府提出の法案は大抵中央官僚たちによって作文される。まず法律を改正するにあたり、その分野を所掌する官僚たちが事務局となり、どのような法律が適切かを議論するための検討会が開かれる。この検討会の人選や議論の進め方には不透明な部分も多いが、形式的には議論は行われる。事務局は委員たちの議論をまとめ、制度案とそれに対応する法律案をつくる。法律案は内閣法制局との相談により、既存の法律との矛盾があれば訂正される。関係する他の省庁との調整もこの段階ですでに始まっている。そしてそれらはパブリックコメントという形で国民に提示され、広く意見が募集される。もちろん、パブリックコメントの大半は普通の一般市民ではなく、業界関係者や利害関係者が多い。集められたパブリックコメントはさらに検討会で議論され、最終的に検討会としての最終報告案が作成される。官僚たちはこの最終報告案をもとに最終的な法律案を作成する。法律案は内閣法制局による厳しい審査を受け、既存の法律と矛盾がないこと、句読点や字句が正しくつかわれていること等が確認できれば、晴れて閣議決定、国会提出の準備が整う。あとは大臣や国会議員たち政治家の議論次第である。

このように多数のチェックを受けている法律であるが、根本的な問題があることにお気づきだろうか。検討会やパブリックコメントの制度はあるにはあるが、あくまで参考意見であり、法律案をどうつくるかは官僚の意向次第なのである。しかも検討会の人選やパブコメの中身は大抵業界人や法律で大きな影響を被る利害関係者で占められており、一般国民の意見は反映されにくい。最後に一応国民から選ばれた政治家によるチェックを受けるのであるが、やはりその議論ではその業界や利害関係者と縁が深い国会議員が中心的な立場を演じるのであり、守備範囲ではない国会議員はだいたいは党の方針に従っているだけである。よって、法律は形式的には国民の総意として形成されるものと考えられているが、実質的には一部の利害関係者によって形成されているのである。したがって思わぬ形でその法律が一般の国民に関係する事態となった場合、当人から考えてどうしても納得できない法律がやはり存在する。

これまでの法律作成の過程を考えれば、彼らが「法律がおかしい」と感じるのも無理はなく、彼らの考え方は、「一つの考え方」として正しい考えである。彼らの考えに基づけば、そのような法律は改正されなければならない法律であるから、法律を破ったり、主張を声高にして幅広い議論を提起する必要がある。もちろん、法律を破る際にはそのシステム上の代償として罪に問われる恐れがある。しかし、その罪は果たして「悪」なのであろうか。そんなわけはあるまい。彼らは彼らの高尚な「正義」を実現するために現行法を破ったのであり、彼らにとってその行為は決して「悪」ではない。私はこの種の罪を「形式的な罪」と呼ぶことにする。罰則のある法律を破るとそこには対価として「形式的な罪」が発生する。しかしそれは「悪」ではない。ただ、計算機に「1+1=」を入力すると「2」が返ってくるように、システム上の反応として「罪」が発生するだけなのである。

一方、当人もその法律の妥当性に納得しておきながら、自らの利益を図るという低俗な目的のために法律を破った場合、そこには「形式的な罪」と同時に、その当人が自らの行為を「悪」と考えているがゆえに発生する「実質的な罪」が発生する。これは「罪悪」と言い換えてもいいかもしれない。「罪悪感」とはこの「実質的な罪」に対して発生する感情である。「形式的な罪」と「実質的な罪」。この二つが揃った時、人々の間で俗語として使われる意味における真の「罪」が完成するのであり、我々はこれに対して厳しい態度で臨む必要がある。

さて、罰則のある法律を破れば、「形式的な罪」と同時に罰が発生するが、罰は国家に司法警察権という武力がなければこれを完遂することはできない。警察が政府に反乱して反政府組織の味方をすれば、犯人を捕まえることもできないし、捕まえられないので処刑することもできない。民事裁判でもこれは同様でAがBに対して損害賠償を支払うよう命令したところで、国家が執行権という武力を失っていれば、本人が拒否を続ければそれを回収することはできない。このように罰が完遂できなければ法律はただの文書に過ぎず、なんの実行力も持たない。つまり、法律は武力の裏打ちがあってはじめて力をもつのであり、その点では武力という「虎」の威を借る「狐」にしか過ぎない。さらにはその「狐」も誕生過程を見ればまともな「狐」かどうかも分からない。

私はそんな「狐」の姿を目の当たりにして、「とにかく法律は守りなさい」と一点張りに主張する人々や、それをなんの吟味力も持たない子供たちに法律遵守を教育する人々の見識を疑わざるを得ない。一体彼らは何を社会正義と捉えているのか。ただその時の利害関係者の間でつくられた法律を鵜呑みにすることだけが社会正義なのか?できる限り多くの人が納得して暮らせる社会、あるいは何か高尚な理想をもった社会をつくっていくことこそが、真の社会正義ではないだろうか。脱官僚を声高に主張するからには、良くも悪くも官僚の作った法律に依存してきた我々は、この「社会正義」とは何かを問い直していく必要があることがあることとは言うまでもない。

もちろん、私は国民の総意がそう簡単には形成されるとは思っていない。一億人以上も人間がいればどれだけ多くの人が納得できる法律を作ったとしても、納得できない人(マイノリティ)がでてくることは予想できる。彼らの一部がその法律に納得できないがゆえに法律違反を起こすことも想定範囲内だ。しかし、彼らは人間の多様性の中で生まれてきた別の価値観をもっており、それ自体になんら罪はないし、その価値観の存在意義は納得できた人々(マジョリティ)と等しく平等である。私たち一人ひとりが持つ価値観同様、人間の不確実性と分散の原理に従って生まれてきた産物である。したがって、彼らの「正義」に基づいた法律違反に対してはシステム上の「形式的な罪」と「形式的な罰」は必要であるが、「悪」だと決めつけたり、厳しく対処する必要性は全くない。むしろ、それを「悪」と決めつけることは価値観の差別であり、納得できる人々の傲慢さを表していると同時に、価値観の「リンチ」に等しい。我々が真に慎むべきことである。現にある時代に於いて絶対だと思われる価値観が覆されて、その時代に憂き目を見ていた人々の価値観が別の時代に正しいとされることもある。「人を殺してはいけない」という基本的にも思える価値観ですら、戦争というコンテキストでは「善」とみなされる。マジョリティが信じる価値観が常に正しいという保証はどこにもない。ただ、信じる人が多いというだけである。

私はそもそも物事に善悪判断を導入すること自体が傲慢なことではないかと思っている。物事は捉え方次第で様々に解釈が可能である。良いと思っていたことには必ず悪い面があるし、悪いと思っていた人に会うととても良い人だったということは、私の人生経験では日常的である。物事は善悪という二元論で評価すると必ず二面性を持つ。そのどちらか一面しか見ないことは、もう一つの側面を無視することになり、公平な判断をしているとは言えない。だから私は最近確信をもって「これは悪いことです」「これは良いことです」とは決して言わない。ニュアンスは似ていても違う表現や遠回しの表現をするように注意しているし、仕方なく使う場合は「私にとって」という文言をつけるようにしている。それは善悪判断をつけることの傲慢さをひしひしと感じているからだ。

なぜだかは分からないが実は善悪判断が全くなければ多くの人間の精神は異常を来してしてしまう。逆に精神に異常をきたした一部の人も善悪判断ができない(心神喪失)。それは私たちの認識する精神という概念が肉体との対立物である(おそらく動物にはそもそも自らの中に精神と肉体という対立概念がないであろう)という二元論によって構築されていることと深く関係しているように思うが、ともかく善悪判断は日常生活を営む上では必須である。しかし、そこには二面性があること、善悪判断をすることには傲慢な面があることを認識しておく必要がある。仕方なく「善」と「悪」を分けているのである。私たちの肉体が嫌でも殺生(植物を含む)をしないと生きていけないと同じように。