信じる者は自分だけ?

よく「信じる者は己のみ」と主張する人がいます。エリート的な道を歩んできて、たゆまぬ自己努力で道を切り開いてきた人に結構多い。確かに他人とは信用ならないものです。信じていたのに裏切られることがある。敵だと思っていたやつが実は優しかったなんて話はいくらでもあります。長年連れ添ってきた夫婦ですら「この人こんなこと思っていたんだ」と呆気に取られるような意見の相違があったりもします。はっきり言って他人は信用できません。ある場面、あるコンテキストでは信用できる人はあったとしても、全面にわたって信用できる人などいません。それには私も同意します。

では自分は信用できるのか。私は自分こそ最も信用できない人間なのではないかと思っています。フロイトの理論では、我々の中には「意識、前意識、無意識」または「自我、超自我、イド」があるとされています。細かい話はよく分からないのでしませんが、少なくともこの理論から言えることは「自分の中には自分で認識している以上のものが含まれている」ということです。これは実際の経験からも納得できると思います。無意識のうちに何かをやっていたということは、誰にもある経験でしょう。

でも、これは実は恐ろしいことです。我々はそもそも自分は何たるやを正確に知らない上に、時には知らない自分が自分の行動を制御することがあるということなのですから。そんな自分の行為や認識を果たして信用できるか、答えはノーです。

よくよく考えてみれば、私たちの五感だって実は怪しいものです。たとえば「ものを見る」という行為を考えてみましょう。まず対象物から発信された電磁波が空間や眼球を突き抜け、網膜の視神経細胞がその一部を感知します。そこで電磁波が電気信号に変換されたのち、それがいくつかの化学的接合(シナプス)を通して伝達され、大脳の視覚野で初めて統合された画像情報として認知されます。そして、さらに大脳の複雑な神経回路を通して、類事物の認識であるとか記憶からの想起という高次の過程を経た上で、はじめて我々は「これはペンなのだ」という言語的な情報にたどり着くわけです。

その経路やその経路で使われる材料(たとえば「ペン」の形に関する記憶)のどこか一つでも大きな異常や見落としがあれば、最終的にたどり着く結論は異なる可能性がありますし、結論にたどりつかないこともあるでしょう。自分の五感が正しいなんていう保証はどこにもありませんし、同じ対象物を与えられても人によって認知はさまざまです。それでも私たちが普段日常生活を送れるのは、本来常に持っておかねばならないこの疑問を無視し、自分の五感は正しいと勝手に思い込んでいるからであり、その自己欺瞞の上にはじめて生活というのが成り立っているのです。さらにいえば、そもそも正しい五感って一体なんですか?客観的に定義できますか?

だから私は口が曲がっても「信じるものは己のみ」などとは言えません。言えるとするなら「他人も自分も根本的に信用ならない」ということだけです。普段は無理やり自分に言い聞かせて、あるいは本心を無視して他人や自分を「信じている」に過ぎないのです。

実のところ、私は自分が認知しているものが本当に上のような物理経路を通ってるかすら怪しいと思っています。もしかしたら、この世界で我々は「現実」と呼んでいるものは、普段は気付かないほど再現性や整合性が高度に担保されたシステムの中で見ている「虚構」なのかもしれない。「夢」はその虚構の中で生まれた、整合性の担保されていないさらなる「虚構」なのかもしれない。「現実」は別にあるのかもしれない。我々は仮想現実のゲームのように、あるシステムの中で単なる役を演じさせられているだけなのかもしれない。
私の哲学の根本にあるのは中学生の時に見た「マトリックス」の世界だ、といえば上のことは十分に納得できるでしょう。プログラミングの勉強をしていて、当時でもある程度の専門用語が理解できていた私にとって「マトリックス」はおそらく死ぬまで解決することのない疑問を私に植え付けていきました。確かにコンピュータに支配されているというのは胡散臭いですが、それをさておいても我々が「現実」とよんでいるものが確かに「現実」である保証などないし、もとから「現実」などというものは存在しないのかもしれません。