小さな物語としての新興宗教

道端を歩きながら考えたことを少し書き留めます。

うちの大学の最寄り駅から大学までの道のりは、普通の住宅・オフィス街なのですが、やけに幸福実現党のポスターが貼ってあるんですね。新興宗教幸福の科学」が立ち上げた政党です。300m歩くごとに1枚は貼ってあるので、幸福の科学は結構な数の信者がいる宗教と考えられます。

だいたい創価学会幸福の科学も公称で1000万人以上の会員がいるとされていて、それに疑義を挟んだとしても、創価で300万人、幸福で50万人ぐらい信者がいそうな感じなので、日本の人口の3%は政党を持つ新興宗教の信者なわけです。政党を持っているわけではありませんが、民主党を支持している立正佼成会なども巨大な新興宗教ですね。

ちなみにその通学路には、たった500mぐらいの間に幸福の科学のポスターあり、救世軍支部あり、金光教支部ありと新興宗教のオンパレードになっています。もちろん、公明党のポスターもあります。

私にはなぜ、こんなに新興宗教が盛んなのかというのが非常に興味をそそります。創価のように昔から存在する宗教も多いとは思うのですが、特にこの10年ぐらいどこの宗教も活動が盛んになった印象があるんですね。それに従って新興宗教がらみの事件も増えています。オウム真理教を知らない人はいないですし、新大阪に「天行力」という巨大な看板を出していた「法の華三法行」は詐欺事件を起こしました。統一教会も印環商法事件でトップが辞任するみたいです。

私は、これらの現象は人々が「物語」を求めている証拠だと考えています。このブログでは頻回にポストモダンという言葉を出しますが、ポストモダンはリオタールによると「大きな物語の終焉」によって起こる新たな時代のことです。

一部のには1980年代にブームのようにして過ぎ去ったポストモダンはもはや時代遅れで役立たずであると考える人々がいますが、私はそうは思いません。彼らが見たものは「ポストモダンの序章」にしか過ぎないのであって、ポストモダンの本章は1990年代、2000年代と時を経るに従って、ジワジワと我々の間に浸透しています。1980年代のポストモダンブームを知らない(=「ポストモダン」思想に対するバイアスがない)私が、純粋に今の時代を検討してもやはりポストモダンの考え方は、時代の趨勢を実によく表しています。具体的に言えば、少なくとも若い世代は、共通してこれが依拠すべき何かであるという絶対性のあるものを持っていません。共時的に、あるいは経時的に「小さな物語」は存在していたとしても、高度経済成長期の日本人が持っていたような「大きな物語」は完全に消失しているのです。構造主義的なシステマティックな関係性主体のアプローチを取るか、そのシステムですら絶対なものではないとするポスト構造主義的なアプローチを取るかは人それぞれですが、とにかく幅広く共有される何かというのは完全に失われているのです。

しかし、多くの人々はよっぽど強靭な精神力を持っていなければ、物語なしに生きていくことは出来ません。不確実性の時代になって、その不確実性をありのまま受け止められる人間がいる一方で、不確実性に耐え切れず見境も無く外部にその不満をぶつけたり(それが今のマスコミと一部の国民がやっていること)、もはや虚構にしか過ぎないと分かっているのに確実性の時代へ退行しようとする人々がいるのと同様、物語の不在をありのままに受け入れて生きていける人がいる一方で、なんとかして物語を創り出そうとしたり、たとえ自身の不利益になったとしてもより整合性のある物語に頼っていく人々がいるのも事実です。そして、その整合性のある物語の代表格が宗教と科学です。

宗教といえばなんとなく不合理なイメージをもつ人も多いと思いますが、実際には「神」という自分たちの世界の外部に規定される強力な存在によって、自らを「神」の物語の上に載せることができる合理性を持っています。つまり、「神」がこれこれと言った、私たちはそれに従わなければならない、という二つの単純なルールで物語の整合性が担保され、内部で物語が完結してしまうのです。ただし、「私たちはそれに従わなければならない」という部分はどの宗教でも同じだとしても、「神」がこれこれといった、という部分は宗教によって異なります。つまり物語が異なるのです。異なる物語に依拠する人間同士で、物語の根幹に関わる部分で意見の食い違いが出ると当然、どちらの物語がより正しいかということについて喧嘩がはじまります。原始的にはキリスト教イスラム教の関係、日本の新興宗教で言えば創価学会立正佼成会の関係がそれです。この物語の対立が悲惨な出来事を招いてきたことに疑問の余地はありませんが、それでも人は物語に頼るのです。

(自然)科学も宗教と同様、一つの物語を持っています。それは「この世界には真理(法則)がある」という哲学とも共通する物語です。医学系の人間なら皆知っていることですが、自然科学系の博士号は英語でPh.D.(Doctor of Philosophy)と呼ばれます。一方、医師免許を持つ人はM.D.(Medical Doctor)と呼ばれ、Ph.Dとは区別されます。医師で博士号を持つ人は、M.D. Ph.D.と呼ばれるんですね。彼らはいわゆる哲学と呼ばれるものは研究していません。当然、なんで医学という学問を修めたのに、Philosophyなのかという疑問が出てきますが、これは自然科学が哲学をベースに構築されてきた学問であるという歴史によるものです(昔の哲学者は科学的な研究もしていた)。つまり、実験や観察などから論理実証学的手法を用いて、この世界に横たわる絶対的な真理や法則を見出すのが科学だからです。このことは、科学が成り立つためにはまず「この世界には絶対的な真理や法則がある」ということを前提にしなければなりません。これが科学者や科学(≠技術)を信奉するものが無意識のうちに依拠している物語なのです。

(こうやって考えると科学と宗教、そして宗教と宗教同士の対立は本質的に同じだともいえる)

物語を失った多くの人々は、大抵このどちらかに頼ることになります。ですが、科学に頼るためにはそれなりの教養と思考力が必要ですし、最近の科学の知見は不確実性という、分かりやすい物語を破壊しかねない領域に議論が進展しがちです。私も科学の世界に足を突っ込んだ端くれですが、とにかく不確実性の問題には悩まされています。そんなことはお構いなしに、どんな人でもパッと飛びつける物語、それが宗教です。新興宗教がジワジワと勢力を伸ばすのはそんな理由もあるのでしょう。