常に感じる価値観の違い

今日は少し愚痴というか、頭の中でぐるぐる回っている内容を書きます。

このブログをご覧の方々は皆ご存知のように、私は自他共に認める「変人」です。普段一見すると、友達と楽しそうにやっている普通の医学生ですが、ひとたび私と人生や社会に対する議論をはじめると多くの方は、自身と私の根底にある価値観の違いを認識させられる羽目になります。作用反作用の法則同様、私も同時にみんなとの価値観の違いを認識させられるわけですが・・・。

まず、簡単な例からいきましょう。

例1 「変は善、凡は非善」

多くの日本人の中には「普通であること」「他人と同じであること」は善であり、「変わっていること」や「普通と違うこと」には悪のイメージがあります。「他人と同じ考えを持ち、同じことをして統率性を確保する」ことに大きな価値を見出しているからです。
一方、私にとっては「オタク」「変わっている」という言葉は褒め言葉であり、善の言葉です。「普通である」ということは悪とまでは言いませんが、どちらかというとネガティブなイメージです。これは私の中では「他人と違う考えや行動を行って多様性を確保する」ことに大きな価値を見出しているからです。少なくとも日本という同一性を重視するコンテキストの中ではですが。
従ってもし、私に「オタクやな〜」「変わっている」といわれた方は、「褒められた」「一目置かれた」と解釈していただければ結構です。


さらに深く掘り下げると、社会と人類の発展には同一性と多様性の双方がバランスよく発展することが必要です。
あくまで仮定の話にはなりますが、もし、この社会に多様性が全くなく、同一性のみで構成されるならば、すべての人間はある一つの類型に収束してしまい、全く同一の人間が大量生産されることになります。もちろん、彼らはある状況に対し同じような感性を持ち、同じような規範、道徳意識を持つために、統治者にとっては非常にコントロールしやすくなります。相手が取る行動もすべて予測可能なものとなるために、人間関係で苦労することもないでしょう。しかし、ひとたび地球の環境が劇的に変化すれば、具体的には気候変動であったり、パンデミックであったり、小惑星の衝突であったりするわけですが、同一性の中で暮らす彼らはそういった予測不可能な現象に慣れていないので、うまく順応することが出来ない可能性が高いのです。しかも、すべての人間が同一と来ているわけですから、ほとんどの人間が同じように環境の変化に順応できず、死に絶えてしまうことになるのです。
一方で、「エントロピーは増大する」ではないですが、同一性が全くなく多様性のみを認める社会でも大きな問題が発生します。すなわち、価値観が多様すぎて人間同士のコミュニケーションが全くうまく行かないのです。社会というものは突き詰めていくと、ある2人の人間の関係性の集合体です。すべての人間同士のコミュニケーションが完全に破綻すれば、社会は成り立ちません。ただし、同一性のみを認めた場合と比べて救いようがあるのは、たとえどれだけ多様性を認めようとも、Nが一定数以上あれば、統計的に一定頻度で同一または相似な人間のグループが形成されうるということです(注:この記述はもしかすると適切ではないかもしれません)。そのグループ内では、全く同一とはいかなくても、比較的似た価値観をもった人間が集まっているわけですから、うまくコミュニケーションをとることができます。こういったグループが多数かつ多層的に形成されるならば、どれだけ価値観の異なる人同士であっても、その気と十分な時間さえあれば、双方が少しずつグループを乗り換えていくことで、いずれコミュニケーションが取れる範囲内に移動することが可能です。従って、多様性のみを認めてもNさえあれば、いずれは同一性が自然に生まれるので、前言をひっくり返すようですが、社会が成り立たないということはないのかもしれませんね。
いずれにせよ、社会が持続し、発展するには同一性のみでも、多様性のみでもダメで、双方の要素が必要だということは言えると思います。ただ、前述の同一性の自然発生の原理から、多様性重視の方向は安全域が広いのに対し、同一性重視の方向は安全域が狭いと考えられるので、私はリスクマネジメントの観点からも「多様性は善」の立場を強く推奨します。

ちなみにどうでもいいですが、私が右翼も左翼も嫌いなのは、右翼はある民族に同一性を求める点、左翼は全人類に同一性を求める点が、私の考えとは相反するからです。ちなみにナチスソ連も結局短期間で自ら崩壊していますね。やはり同一性重視は安全域が狭いのです。

なお、誤解のなきように言っておきますが、私のいう同一性とは共時的な同一性であって、通時的な同一性ではありません。制御学の見地から言えば、通時的にはおそらくネガティブフィードバック機構によって同一性(というか「一定性」と言った方がいいかもしれない)を重視した方がシステムの維持には有益だと思います。もっともネガティブフィードバック制御でも、制御特性と外乱の程度によっては発散することもあります。この辺は制御特性を実際に計算してみないと分からないようにも見えますが。

注:そもそも統計学や統計的概念というのが、経験的に得られた「自然の法則」であり、形式論理的なものではないからです。あと、根本的には人間の性質をどういう軸で評価していくかという問題は常に付きまといます。

さて次の話はインターネット世代、特に2chで思春期を過ごした人々には納得できる内容かもしれません。

例2 「情報はアウトよりインをコントロールすべし」

1990年代からインターネットが急速に発展したことにより、あらゆる情報が誰でも、瞬時に、かつ手軽に手に入るようになりました。また同時に誰でもインターネットに手軽に情報を発進することが可能になりました。その結果、一種のパブリックスペースたるインターネット上には様々な情報があふれ、診療ガイドラインのように非常に有益な情報から、このブログのようにゴミのような情報もたくさん転がっている始末です。
ここで問題になるのが、一人の人間が生きていくうえでこの溢れんばかりの情報をどのように扱っていくかということです。昨今の情報倫理やセキュリティの分野ではもっぱら、個人情報保護や機密漏えい防止の観点から「情報のアウトプットに対するコントロール(いわゆるアクセスコントロール)」についての技術や規則にばかり焦点が当たりがちです。もちろん、他者に知られてはならない情報を不用意にアウトするべきではありませんし、その技術と管理が非常に重要であることは言うまでもありません。
しかし、情報はアウトされると同時にインされる存在でもあります。情報を取り込むときに情報をインする側の情報コントロール技術というのもまた同様に重要な問題です。特に「取り込めば不快になる」「信じるだけのエビデンスのない」情報についてはことさら、このことが問題となりえます。

で、何が多くの人の感覚と違うかというと、

私は原則として公共空間(パブリック・スペース)に転がっている視覚的情報に対しては、「情報をインプットする側に責任がある」と考えている点です。つまり、「当人にとって不快な情報は、見たくないのなら見るな」ということです。そのことは裏返して言えば、「たとえ一部の人が不快に思う情報でも、アウトプットする側に責任はない」ということであり、「公共空間への視覚的情報のアウトプットは原則自由である」ということでもあります。

どうも私の経験上、日本人の多くは「恥」という概念を大切にしているようで(注)、何かと公共空間に「一部の人に『醜い』とみえるかもしれないもの」をアウトプットすることに対して非常に抵抗があるように見受けらるのですが、私は『醜いかもしれないもの』であれなんであれ、本人が「出しても構わない」と思うのであれば、自由に出せばよいと思っています。なぜか。そういった情報をどのように捉えるかは、最終的には情報を受け取る側、すなわち情報をインプットする側の価値観や感性によるからです。次の表を見てください。
仮定する条件

  1. Aさん(情報をアウトプットする)から公共空間を介して知り合いではない、一般人たるBさん(情報をインプットする)、少し変わったCさん(情報をインプットする)に情報が伝わるとする
  2. 情報をインプットする側もアウトプットする側も情報を選別する能力を持っている

表1.アウトプットコントロールを行う場合

  Aさんにとって不快 Aさんにとって有用
Bさんにとって不快 公共空間には出ない 公共空間には出ない
Bさんにとって有用 公共空間には出ない 公共空間に出され、活用される

表2.インプットコントロールを行う場合

  Aさんにとって不快 Aさんにとって有用
Bさんにとって不快 公共空間には出ない 公共空間に出るが、活用されない
Bさんにとって有用 公共空間には出るかもしれない 公共空間に出され、活用される

表1と表2を比較すると公共空間に出される情報量は表2の方が多いですね。さらに表2の太字で示した部分は、Bさんには不快かもしれませんが、Cさんには有用かもしれません。その場合、Aさんが出した情報は社会でより活用されることになります。つまり、上に示した条件の下ではアウトプットコントロールよりもインプットコントロールを行ったほうが、情報量、情報活用度ともに優れているのです。

注:ちなみに僕自身は、行動を躊躇させる要因として、内面的には多少は持ち合わせているのかもしれませんが、実はあまり「恥」という感覚を持つことがありません。一方で「罪」という感覚はかなり頻繁に感じます。よく日本は恥の文化、欧米は罪の文化とも言われますが、その点で言えば私は欧米人に近い感覚の持ち主なのかもしれません。おそらく、そこには私が「神」の存在を確信的に信じているということと、大きな関係がありそうですが。

もちろん、この考えかたには問題もあります。「仮定する条件」に示した「情報を選択する能力」の問題です。インプットする側の「情報を選択する能力」が乏しければ、不快な情報をマジマジと読み込んでしまい、Bさんの生産活動性が低下するかもしれません。つまり、表1、2は次のように書き換えられるかもしれないのです。
表3.情報活動度(アウトプットコントロール時、情報選択能力低い)

  Aさんにとって不快 Aさんにとって有用
Bさんにとって不快 ±0 ±0
Bさんにとって有用 ±0 プラス

表4.情報活用度(インプットコントロール時、情報選択能力低い)

  Aさんにとって不快 Aさんにとって有用
Bさんにとって不快 ±0 マイナス
Bさんにとって有用 ±0またはプラス プラス

このような条件においては、必ずしもアウトプットコントロールはインプットコントロールに比べて優れているとは限りません。Bさんにとって不快な情報を活用できるCさんのような人が少ないと、マイナス要因の方が多くなってしまうからです。

それでも私はあえて、インプットコントロールを推奨します。それはひとえに公共空間に出ていく情報量が多いからです。社会の資源である情報量が多いと、情報の組み合わせパターンが指数関数的に増大します。新たな発想というのは、全くの無から生み出されることは少なく、多くは既存の情報の組み合わせによって得られるので、情報量が多いということは多くの発想を生み出し、ひいては社会の多様性の増強につながるのです。先ほども示したように私の考える原理原則では、多様性の重視こそが社会の持続と発展につながるわけですから、「情報量は多ければ多いほど社会のためによい」ということになります。パブリックに流れる情報量を抑制するアウトプットコントロールはその観点からも良くないことなのです。

昨今、日本が世界の中で特に沈没している感が強いのも、情報が最大の価値を生み出す情報化社会、すなわち「ポストモダンの時代」に於いても未だインプットコントロールの技術を身につけようとせず、アウトプットコントロールに重きを置いているからでしょう。アウトプットコントロールは質の高いモノが最大の価値を生み出す「製造業の時代」の遺残です。その観点で言えば、日本の「恥の文化」が「モノづくり」社会を生み出したといっても過言ではないのかも知れません。*1

話を情報を選択する能力に戻します。
ただし、私があくまでこのことを推奨するのは文字情報や画像情報などの「視覚的」情報に限ります。なぜなら、視覚的情報は見たくなければ眼輪筋や胸鎖乳突筋を収縮させて容易に瞬間的にインプットをコントロールすることが可能ですが、聴覚情報や嗅覚情報は作業に必要な両手を使わなければインプットコントロールを行うことが出来ないからです。たとえば、すぐ隣で道路工事をされれば、その音を聞きたくないと思っても容易にシャットアウトすることはできないですよね。聴覚情報や嗅覚情報では、情報を選択する能力が著しく乏しいために、この類の情報はアウトプットコントロールされた方がいいのです。

このことを指摘すると、次のような反論があるかもしれません。「視覚的情報でも情報を選択する能力は乏しい。なぜなら実際にその情報を見て内容を読み込まないと、その情報が見たいものか見たくないものかが分からないからだ
まさにその通りだと思います。しかし、視覚的情報も含めてあらゆる情報というものは一度は認識というプロセスを経ないと、取捨選択のしようがありません。1秒程度のリスクは仕方がないと許容する他ないでしょう。むしろ、このリスクを理由に情報のアウトプットをコントロールするのは、パターナリズムとしか言いようがありません。少なくとも聴覚情報や嗅覚情報に比べれば、人間の視覚的情報についての情報選択能力は高いのです。

どうしてもこのリスクが許容できない人々は、情報を予測する力(一種の危険予知能力)を磨くべきだと思います。たとえば、ホラー映画が嫌いな人はBGMがホラーっぽくなるだけで目を閉じます。BGMがホラーなだけで、お化けは出てこないかもしれませんが、やはりお化けが出てくることもあるわけで、彼らは次に視覚に飛び込んでくる情報を予め予測して、インプットコントロールを行っているのです。

結局結論はこうなります、「グロ画像リンクは踏んだ人の責任」。2chで育った人にはおそらく納得できる内容ですね。さらに次のことも言えるでしょうか。
電車の中でエログロ画像を見るのは結構だが、音漏れさせながら音楽聴いてるやつ、香水つけまくっている女は最悪」。

*1:モノと情報の最大の違いは、その質が与える意味でしょう。製造業では原料が中間生産物になり、中間生産物が製品になるというシーケンシャルなプロセスを経てモノが作られていきます。従って各過程の不良発生率が低ければ低いほど全体としての不良品の発生は少なくなりますし、質の高いモノ同士を組み合わせることによってより安心して使える質の高いモノが生み出されます。一方で情報の場合は、そもそも「質の高い」情報がどのようなものであるかが不透明です。エビデンスレベルが高い情報が質が高いのか、エビデンスレベルは低くても使いやすい情報が質が高いのか、エビデンスも使いやすさも関係なくて、受け取り手にとって意義ある情報が質が高いのか・・・。情報の組み合わせも決してA→B→Cというようにシーケンシャルなものではありません。相互に似た側面、違った側面をつまみ食いするようにして情報を組み合わせることもあります。さらに厄介なことに、低い質の情報同士を組み合わせても、高い質の情報が得られることもあります。ノーベル賞級の発見の裏には大抵やり方を間違えた実験が潜んでいるということはよく知られています。セレンディピティというやつですね。そういった点から考えても、「モノ」と「情報」には大きな違いがあるのです。