ニューエイジ運動

大学に入るまであまり宗教に興味がなかったのと、世界史がイスラムに入る前に終わってしまった(地理選択だったので)で、その辺の宗教の知識不足をいつも実感させられるわけですが、最近ニューエイジ運動という言葉があるのを知りました。

詳しいことはwikipedia:ニューエイジを参照していただければいいのですが、霊的なものを通じて超自然的な真理を個人レベルで追究したり、自己変容を重視したりする、いわゆる日本でいうスピリチュアリズムに相当するもののようです。スピリチュアリズムというと例の江原氏しか思い浮かばないかもしれませんが、どうやらヨーガや禅なども含めて裾野はもっと広いものと解釈すべきようです。

日本ではオウム事件があったことや世界的にニューエイジ運動が広がった時期に全共闘終結し、全共闘崩れが曲解してマルクス思想や破壊思想に利用したことなどから、あまりなじみがなく危険と思われているようですが、実際のところは高度管理型の物質社会、大量消費社会に対する新たな思想・視点としてより多くの人に支持されるようになっており、最近の江原スピリチュアリズムのみならず、ヨーガやメディテーション、整体、アロマや音楽療法など東洋東方的文化への関心の高まりは世界的な流れという視点ではニューエイジ運動のひとつと考えることもできます(ニューエイジの定義自体があまりはっきりしないので、範囲を広げようとするとどこまでも広げることができる点は注意する必要がある)。

もちろん、ニューエイジ運動は往々にして神秘主義的な、あるいはマインドコントロール的な面を持つため、新宗教や極端な思想と結びつきやすいという側面は持っているので、関わる際には細心の注意が必要ですが、それ自体はなんら悪いことではないだろうということはいえると思います。私も大手スポーツクラブでスタジオ用に編集されたヨーガをやって(スポーツクラブでは、ここ数年音楽に合わせたヨガプログラムが非常に人気です)思ったのですが、ヨーガはとても気持ちがよく日々の疲れを癒してくれますし、気分転換にもなります。集団主義的で権威主義的な宗教に対し、自分で本当の自分なるものを追い求めていくということがコンセプトなので、ニューエイジをどう考えようが、どういうものを重視してやろうが、(他人に迷惑をかけない限り)その人の勝手ということになるのかもしれません。一人一人の遺伝子や環境因子は基本的に異なるのですから、その人に合うものも異なって当然というわけです。

国家にとってはニューエイジ運動はあまり好ましいものではないでしょう。まず、第一にニューエイジは多様的過ぎてその実態や共通点をつかむのが難しい。人民が一体どういう考えでその活動に参加しているのか、組織的で破壊主義的活動が内包されているのか、指導者が存在するのか。顕在化した団体について調べることは可能でも、個人個人の思想に踏み込むのは容易なことではありませんし、過度な干渉は無用な反発を生み出します。さらに、情報化社会はコミュニティの島宇宙化を促します。似たような思想の持ち主がインターネットで匿名によって簡単にコミュニケーションをとり、つながることが可能になりました。一人の人が複数の人格や所属格を持ち、複数の小コミュニティに自由に出入り可能となったため、監視が極めて難しくなっているという現実があります。

第二にニューエイジ運動はそのコンセプトから個人主義リベラリズム(※【注意】参照)が強く反映されているため、どちらかというと、国家という権威にはあまり馴染まない存在です。もっと突っ込んで言えば、国家的なものを嫌う傾向にあります。その点、キリスト教イスラム教などの権威・組織を比較的重視する旧来型の宗教は国家組織との親和性を強く持ち、国教として定義されたり、政治に介入したり、特には国家間で宗教を巡って緊張が高まるというようなことが起こります。日本では反宗教的感情を持った人々が「宗教は戦争のもと」と主張し、宗教や宗教国家に反発していますが、果たしてニューエイジ新宗教が旧宗教ほどにそのような性質を本質として持っているか、という点については大いに疑問です。
もしかするとニューエイジ由来の新宗教も、巨大化し組織化するようになれば本来のニューエイジとは離れた方向に向かって行くのかもしれません。たとえば、オウム真理教では省庁制という擬似国家組織制度が導入され、高学歴の教団幹部が各自組織的に分業しながら一つの目的、すなわち「オウム国家」の確立に向かって突進をしていきました。(教団の組織はwikipediaで色々調べると面白いです。厚生省は二つもあって、いずれも生物化学兵器の製造開発を担当しています。患者の治療については別に治療省があったようです)また、フランスからカルト指定されていた創価学会ニューエイジの宗教とは異なりますが、組織化され、より国家組織と親和性を持っています。やはり、宗教は組織化すると大きな危険性をはらむということでしょうか。最近の新宗教個人主義的なニューエイジと組織化したカルトの2つに大きく二分されていると考えている人もいるようです。その理論に乗っかれば、国家視点でアブナイのは基本的に後者ということになります。

【注意】私は思想の判定に以下の二次元表を使うことにしています。詳しくはPolitical Compass注意書:左翼&右翼の正しい定義を参照ください。参考までに私の現在の立ち位置をお示しします。

この座標系では一般的に多くの日本人は中心点からやや左下に分類される傾向があります。

とりあえず、色々調べてみてニューエイジについてはなんとなく概念がつかめた感じもするのですが、霊感や東洋的思想を重視するといえば、最近の全ての流れがニューエイジ"的"なんじゃないかとも思えてきます。どこまでをニューエイジとするか、結構難しいものがあります。日本人の場合は特定の宗教があまり浸透しておらず多神教的な考えを持っているだけに、霊的思想とか東洋的なものといったニューエイジに特徴的な思想を薄らながらも多くの人が持っているからです。一方で本当にニューエイジに深くはまり込む人は多くはありません。たとえばヨガやアロマは好きでもチャネリングや宇宙人は信じないとか。エコロジーや自然には強い関心を抱いているが、霊性的覚醒は信じないとか。それどころか、ニューエイジ的な手段を消費しているだけという指摘もあるぐらいで、消費的ニューエイジャーが多いというのも特徴です。

ただ、全体的に「近代の合理主義から自然との調和を目指した精神性のある世界へ」という流れはあるように思いますね。

ちなみに東方なんかもその流れに乗っているんじゃないかと個人的には考えています。たとえば「幻想郷」の概念とか、ちょっと霊的なものがありますよね。ゲームより人気があるんじゃないかと思う東方の音楽はニューエイジミュージック(ニューエイジミュージックは、そもそもレコード業界の戦略用語に由来しており本質的にはニューエイジ思想とは異なるが、精神性を重視していたり、リラクゼーション要素があったりとニューエイジ思想との何らかの共通性・関連性を持つ可能性は高い)を内包しているものが多い。

ちなみに江原スピリチュアリズムの影響を受けた人(いわゆるエハラー?)と友達だったことがありますが、いきなり「霊は存在すると思う?」と聞かれて困った記憶があります。私は「科学的に霊のようなものの存在は証明されていない」と答えたわけですが、「科学的に証明されなかったら存在しないということ?」とさらに続けられて、「人間はそもそも何かを観測することであるものの存在を感知しているわけだから、科学的に霊を観測できる方法が確立されていない以上、その存在は明らかではない。いるかもしれないし、いないかもしれない。最終的には信じるか信じないかだと」と答えました。最後には「霊の存在を信じる?」と聞かれましたが、「霊かどうかはわからないが、個人的には人間を超越し、この世を支配する神のような何か概念的なものがいることは信じている」と答えました。

この問答からも分かるように僕自身はニューエイジ思想とある程度の親和性があると思っています。

  • ニューエイジミュージックや民族音楽が好き
  • 汎神論的考えをしている(自然を支配する法そのものが神である、よってすべてに何らかの神の支配がある、というのが僕の考え。従って偶像崇拝は嫌いです。神は概念でしかないのから)、ただし偶然性というのも神の一部であると考えるため決定論者ではない。その時々に神は偶然性を発揮するので、レトロスペクティブに見れば決定論的に見えても、プロスペクティブに見れば偶然は存在する
  • 個別も大事だが全体も捉えようとする姿勢(システム論的なものを考える)を持っていること
  • 大都会の疲れを癒してくれるような自然が好き(山を見たり海を見たり、渓谷を歩いたり)
  • 旧来の社会道徳へはかなりの違和感を感じている、現代には現代の道徳があって然るべき

こんなところでしょうかね。結構ニューエイジ的かなぁとは思いますが。でもパワーストーンとか、チャネリング、UFOなんかの胡散臭いものは正直信じてません。信じてないというか、分からないのでタッチする気がないのです。そりゃUFOもいないという証拠がないので、もしかしたらいるかもしれませんが、現時点では個人が信じるか信じないかの問題なので、私があえて存在するかどうかの考えをはっきりさせる必要はないのです。ここで「信じない」といわないと変な目をされる日本の風潮はちょっとおかしいと思ってます。「分からない」と正直に堂々と言えばいいのです。しかしながら、こういう怪しいものから、ヨガなどの伝統的なものまでをニューエイジというのは少し不思議な感じがしますね。

以上、最近「ニューエイジ運動」という言葉を知った者の適当な分析・感想でした。