死生観についての仮説

昨日の日経を見ていると、東大の宗教学の教授がグローバルCOEで死生学の研究をやっているという記事を見ました。欧米とアジアでの文化的な違いを中心に研究されているそうです。個人的にはああいう分野、結構興味があったりするんですけどね。

さて、単純化しすぎているかもしれませんが、あくまで論理的な観点で考えると死に対する人の考え方は以下の2つに分類されると思います。

  • 死は避けられないし、仕方がない
  • 生はできる限り永遠であり、死は避けるべきもの

当然、前者がより真っ当な死生観であるわけですが、よく考えるとその考え方も一歩間違えると危ない方向に走りかねないということに気付きます。すなわち、
死は避けられないし、仕方がない

死ぬのは仕方がないのだから、殺人や戦争で人が死んだって構わない

よって命は大して重要じゃない

という論理展開です。実際、一部の好戦主義者の中にはそういう方々もいらっしゃるようですが、果たしてこれが正しいかというと私はそうは思いません。皆さんもそう考えている方は少ないのではないかと思います。でも、「死を仕方がない」と捉えることは、順接的にはそういう結論につながる危うさを秘めていることは頭にとどめておかねばなりません。

一方、最近の医療現場から轟々の非難を浴びている後者の死生観は論理的に考えれば次のようになります。
人は普通なら死なないし、避けるべき

避けるべきだから、戦争や殺人、過失等で人を殺してはならない

よって命は尊く重要である

不思議なことに結論としては後者の方が正しいと考えられているのです。なんとも矛盾だらけで逆説的なことだと思いませんか?

実際に死の現場をちゃんと見ると、多くの人は心から「人の命のはかなさ、死ぬことの仕方なさ」と同時に「命の大切さ、尊さ」を認識すると言います。私も大学に入ってから連続してそういう機会にめぐり合うことができました。現場を見ると、一見逆説的ともいえるこの世の真理を頭ではなく心から感じることができる。とても不思議なことです。

そこからある一つの仮説が浮かびます。

  1. 「死は避けられない」と考えている人
    1. 死の現場をきちんと体験しておらず、頭で死を考えている人⇒虚無的死生観、自らを含めて命を大事と考えない、殺人や自殺に親和性がある
    2. 死の現場を体験した人⇒「死は避けられない」が「命は大事」、いわゆる普通の人の死生観。もちろん、長年連れ添った人の死から立ち直れない人も多くいる。
  2. 「死は避けるべき」と考えている人
    1. 死の現場を体験していおらず、頭で死を考えている人⇒たとえ加害者がいなくても「死んだのは誰かのせい」だからそいつを罰せよ、という立場。いわゆる医療現場が非難する死生観
    2. 死の現場を体験した人⇒普通の死生観のもう一つのタイプ。その人の死については諦めるが、その原因をさぐり、防げるのなら次は防ごうとする姿勢を持つ。ある意味、医者・医学研究者の死生観に近いか?(議論の余地はある)

異論はあると思いますし、指摘していただければこちらとしてもありがたいのですが、僕はこんな風に考えています。最後の項目については、医師はどちらかというと「死を敗北」と考える傾向がありますし、患者さんが次々死んでいくのを見て研究をしようと決意した研究者も多いわけで、案外そういう考え方の人は医者の死生観に近いのではないかと考えました。もちろん、医師でも色々な死生観があるわけで、一概に言えるものではないとは思うのですが。

この仮説から考えると、僕はどういう思想を持つにせよ、やっぱり親しい人の死の現場を何度か経験しておくことが、バランスの取れた死生観を養う上では重要なのではないか、というように思います。

個人的には死のショックからなかなか立ち直れない人も多いというのは死生観というよりは、その人の性格や故人との関係、家族や周囲との関係などの要素が大きいのではないかと感じています。戦争を体験し、何度も死に水を取った人でさえ、1年たっても遺影を見ては涙しているという場合も耳にします。ある意味、これは仕方のないことで周囲はそれに配慮した心遣いをする必要があるでしょう。色々な遺族の話では周囲の心無い「まだ泣いてるの?」という一言に余計に辛さを感じる人も多いようですからね。悲しかったら泣くのが一番だと思いますよ。男であっても女でもあっても。何年かかるかわかりませんが、立ち直れなくてもそのうち時が癒してくれるのだろうと思います。本当に親しかった人ならばやっぱり2、3年以上かかって当たり前だと思います。