単純な構図で説明できるのか?

先日、本田先生のブログを見たら「非寛容・他罰的」というテーマで書かれていましたが、それについて一言。

  • 昔=寛容・思いやり
  • 今=非寛容・他罰

という構図はあまりに物事を単純化しすぎていると思います。今でもあちこちで残っていますが、かつてにはムラ社会という、全体方針への逸脱者に対して非寛容で懲罰的な小規模コミュニティが存在しました。一方で現代の都市では他人に迷惑をかけさえしなければ、基本的には何をやっても自由です。東京の地下鉄の通路でいい年したおっさんがこぶしを振り上げて「うおー」と叫んでも誰も相手にしませんし、止める人もいません。リンチを加える人もいません。これは寛容ではないのでしょうか。

国家権力の中枢から離れている大阪では東京に比べて逸脱が比較的自由に行えます。越えてはいけない一線さえ守れば、ちょっとアブナイことをしても、面白ければ市民は笑ってくれます。本当に焦っている人を見かければ、「下手に関与するよりも」という意識なのかもしれませんが、割り込みも許すことが多いです(許すから割り込みが多い)。東京では舌打ちの連続です。東京と比べると非常に寛容な街です。人情味もあって、思いやりもある。しかし、「お客様は神様」思想が生まれたのもまた大阪で、遠慮なく物言う人間(≒クレーマー?)が多いことでも有名です。大阪の場合、「何でも言うた方が得や」という視点で物を言っているわけなんですけどね。

こういう視点でものを見ていくと、現代が非寛容だとか他罰的だとか、そういう単純な論点で医療崩壊問題を語るのは難しい。私は最近の過失・過誤における懲罰的態度というのは、システム上の問題、特に分業や専門分化の影響が大きいと考えます。それについては明日にでもエントリーを出したいと思いますが、ヒントは「機械だけの世界ではSimple is best。しかし、人間が絡むとSimpleなシステムは諸刃の剣になる」ということです。

まぁ、それからあとコメントを見て思ったことは、関係ないことをでっち上げる輩がいるものだなぁと。日教組がうんたらかんたら書いてますが、すぐにこういう複合的問題を右翼左翼の問題にしたり、思想的なものへ援用したりする人間がいるから余計にこの世の中がおかしくなるんですね。果たして医者なんですかね?最近は思想が多様化しすぎていて、そういう単純な構造では語れないのは明白なんですが。私は例の脱線事故では2年ほど前からJR西の行き過ぎた経営方針に対して批判的だったこともあり、あの事故を色々と追っかけてみてよく分かったのですが、あの事故に便乗して左翼団体とか朝鮮人団体とか色んなものが出てきて勝手なことをわめいている。まぁ、日勤教育は労働問題になったこともあり、左翼が絡んでくるのはある程度仕方がないと思いますが、なぜに朝鮮人団体が出てくるのか、私には全く理解ができませんでした。正直、純粋にJRのダイヤや運行管理の問題を追っかけてきた人間としては不本意極まりないというか、JR西職員への暴行やゴルフ問題への過剰反応など、どう考えてもイジメとしか思えないような行為には私は逆に怒りを感じましたけれどもね。奈良の産科の事件でも、関係のない団体が出てきて遺族をそちらの方向へ引っ張ったようです。

まぁある意味、それも実はシステマティックな問題とも関連している可能性があるのですけれどもね。すなわち、現代社会では遺族をサポートする儲からない仕事をしようとする人間がいない、システム上の問題によってなかなか立ち直れない遺族を社会がけなす風潮がある、そこに何らかの意図を持った人が入りやすい構造になっている、というような問題なのですけれども。それも含めて近々、エントリーを出します。