やっぱりこの人は・・・

チームバチスタが出た頃から、私は「海堂尊」の考え方というか、意見の発信方法、議論の持っていき方が嫌いなんですが、これを読んでさらにその思いを強くしましたね。
海堂×岩瀬●死後画像をめぐるトークバトル

Aiについてセンターの名前について、ごり押し議論が行われていますね。
相手方「名前はなんでもいいと思いますよ」
海堂「じゃあAiセンターにしてください」
この問答を何回繰り返しているんですかねぇ。しかも威圧的。
議論というより攻撃にも見える箇所が多数で見受けられます。

妙なところにこだわるというか。医学生でもAiといってピンと来る人は実は少ない。
チームバチスタは熱狂するほどのファンであってもAiは知らない。それが現実ですよ。
だいたい、何でもかんでもアルファベットの略語を使おうとすることに無理がある。

医療従事者と他分野の人間とのコミュニケーションで一番困るのが、アルファベットの略語です。
MRIぐらいなら知っていても、AMIとかDMになるとほとんどの人が「何それ?」状態です。医療者が普段当たり前のようにして使っているアルファベット略語が、いかに通じにくくて危険なものか。医者同士のコミュニケーションがメインの病理医さんには、理解できないのでしょうか。一般人への理解を促すならば、そういう名前を避けるべきことに疑いの余地はありません。

実際問題、たぶん、工学部の人間がAiセンターと聞けば、「あ〜、人工知能(AI)を開発しているところね」という解釈をされるでしょう。実際にセンターにはCTやMRIが入ることになりますから、いかにも人間の脳機能を分析して、人工知能を作っていそうなセンターに見えます。画像死因センターぐらいの方がよっぽど分かりやすい。

そして、ここから先は制度理念の話になりますが、AiはAi単独ではやはり機能しません。うちの大学病院の救急では家族の同意が得られた場合にAiを行うことがありますが、その後監察医の解剖が行われるケースが多々あります。その合同カンファレンス(司法よりは純粋な医学としての死因究明が目的)に参加しましたが、やはり画像から分かったこと以外にもマクロや組織から新規に分かったことがある症例が多かったです。中には画像データと剖検所見が矛盾していて、議論になったケースもありました。画像では見えない部分もあります。解剖もやはり一つの手段として大事です。死因究明の一つの手段として、解剖とAiとは並列共存関係でなければなりません。さらに言えば、画像だけではなくラボデータとか、血ガスとか、そういう死亡直前、直後の臨床の様々なデータも死因究明の手段の一つです。画像にこだわる必要は全く無いと思います。

さらに放射線科医のレポートを見る機会も多いのですが、彼らは結構曖昧なレポートをよく返してきます。例えば「臨床像から○○病だと思うのですが、画像診断はいかがでしょうか?」と依頼を出すと、「××という所見が認められます。○○病と考えても矛盾しない所見です」と返って来ます。「○○病です」と返ってくることはほとんどありません。

主治医へのリスペクトもあると思いますし、私はこれが分野横断的にコンサルテーションを行っている放射線科医のあるべき姿だとは思いますが、逆に言えば、こういう書き方をするのは放射線科医自身が画像所見だけで、病気を判断することの危険性をよく理解しているからこそなのでしょう。放射線科は忙しいこともあって、実際に患者さんと長時間問診を取ったり、所見を取るわけではありませんからね。(放射線科の先生は大体そういう謙虚さを持っています。同様の構図を持つ病理医でも信頼できる先生はそういう謙遜がありますね。だいたい、偉そうにして大岡成敗みたいなことをやっている病理医ほど学生にも臨床医にも嫌われています)

そういう観点から、Ai画像と様々な所見が詰まった遺体は分離できませんし、分離すれば臨床における縦割り式各科分断と同様の自体を招きます。さまざまな所見や病歴から病態を総合的に理解することだけが、真の死因究明に導く唯一の方法でしょうし、生きた人間についても同様のことが医学界でも盛んに言われているところです。

「死因究明≒とにかく画像」という海堂理論よりは、法医学と臨床の結びつきの中で、「死因究明の一手段」として画像を捉えている岩瀬理論の方がよっぽど合理的に思えます。