私が遺族になったらどうするか

私は物を語るときはできるだけ、関係者になったつもりで考えるように努力しているんですね。なかなか難しいことではありますが、例えば犯罪一つとっても加害者にも被害者にもなりうるわけで、一方だけでなく両方の立場をあらかじめ想定しておくことはイメージトレーニングとして重要なことだと思います。

というわけで、今日の話題は「もしも私が遺族になったなら」という仮定で話を進めます。
設定としてはそのときに一番大事な人(夫婦持ちなら配偶者、恋人がいるなら恋人、誰もいないのなら最も信頼できる親友)を犯罪で失ったら、という想定で考えてみます。

まず、悲報を聞いた時にそれを受け止められるのかという問題があるでしょう。「信じられない」「誤報ではないか」というのが初期反応だと思います。そこで複数のルートから情報の真偽を確かめようとするはずです。でもやっぱり、どうもその情報が本当らしいとなると、まずは状態を確認しに行きたくなります。遺体がどこに収容されているのか、誰が面会に来ているか、等の情報を集めつつ、その場所に急行するでしょう。そして、ついに対面。犯罪事件の遺体ですから司法解剖が終わってからになると思いますが、昨日まで元気だった人の青白く硬くなった様子を見て、今見ているのは現実ではないのではないか、という思いと、故人との思い出の数々、誰がこんなことを、という思い・・・それらが交錯してほとんど頭の中はパニック状態になることが想定できます。一方で、この頃から「それでも死を受け止めなければならないな」という考えも浮かんでくるでしょう。

一通り儀式が済んで、交友関係を探る警察の取り調べも受けて、一段落したところで襲ってくるのは大きな落胆と抑うつでしょう。「昨日まで元気だったあの人がなぜ・・・」「この人を失って私に生きるだけの希望があるのか」考え続けるだけでしんどくて、会社も休むでしょう。たぶん、これは2週間から1ヶ月ぐらいは続くように思いますね。

そのうち捜査が功を奏して犯人が捕まることになります。動機はなにか、計画的だったのか、どういう状況で殺したのかというのが大きな興味になるでしょう。そして、検察に送致されいよいよ刑事裁判が始まります。

この頃になるとようやく死を受け入れられるようになり、これから彼の死をどう無駄にしないようにするかということを考えるようになるでしょう。犯人への憎みの気持ちも強くなってきます。

ここから先が普通とは違うことを私は考えるでしょう。
裁判で犯人への思いを陳述するように依頼があったとします。普通は極刑を含めた厳罰を望むでしょう。しかし、私はそれをする気はありません。なぜか。

故人は犯人のおかげであの世へ行ってしまったわけです。私の考える「あの世」には天国も地獄も無い。ただ、死者の暮らす国(黄泉の世?)があるだけです。もし犯人を死刑にしてしまえば、憎き犯人をまた故人のいる死者の国に送り出すことになるわけです。憎き犯人はあの世でも故人を痛めつけようとするかもしれませんが、誰も守ってやれません。また同じくり返しがあの世でも起こります。それぐらいなら、私があの世をいって故人を守ってやらねばなりません。つまり、相手を死刑にしてあの世に送り込むぐらいなら、いっそ私があの世にいって一緒に故人を守りながら暮らすほうがよっぽどマシだと思うのです。

だから私は死刑を望みません。本気で死刑を望むほどの強い思い入れのある人なら、自分が後追いして守りにいくと思います。だいたい、その人がもういない現世など寂しくって生きてられないと思うんですね。生きているだけの魅力がないというか。ある意味極端かもしれませんが、私ならそういう行動をとるかな。私自身は仮にそうなったとしてもそれが悪いこととは思いません。道は限られているのですから、その中で自分がもっとも良いと思うものを選べればそれだけでも意義あることです。

そういう点では尼崎の脱線事故後追い自殺した女性の気持ちは分かるような気もします。ネットでは何かと非難もあるようですが、自殺という道を選んだのは理解できるし、変な言い方かもしれませんが「立派な行動だった」と言ってあげたい。

もっとも子供がいるとか、自分の収入を当てに生活している人がいるときはなかなか思いどおりには行かないでしょうけどね。そのときの辛さは並大抵ならないと思います。死ぬことが最善と思っていてもできないのですから。

知ることが幸せとは限らない
生きることが幸せとは限らない

職業上そういう責務を負っている人以外で、、多くの人が「自殺をすることは悪いこと」という言説を振り回すのには正直、疑問を感じます。よくある説明が「他人に迷惑をかけるから、他人が悲しむから自殺は悪い」というもの。しかし、そもそも人間が生きているだけでも他人には少なからず迷惑をかけているのです。満員電車で通勤するだけでも他人にどれだけ迷惑がかかっているか。死んで迷惑がかかるのも、その人が生きていたが所以の産物ですよね。原因を取違えているように思います。人が悲しむのも、他者と関係性を持って生きる人間がかならずどこかで目の当たりにする宿命のようなものです。どこかで発生する悲しみを「迷惑」という言葉で否定的に捉えるようなら、それは人間の生活そのものを否定したことに等しいのではないでしょうか?誰か私を納得させてみてください。

ちなみに、かつて私も自殺を考えたことはありますが、上の考えにたどり着くとなぜか自殺念慮は消えていました。たぶん「人間は他人に迷惑をかけて生きるもの」という考えが、逆に私を開き直らせたのだと思います。不思議なものですね。

自殺したいと思っている人へのメッセージ。
小さなことでも大きなことでも、どんどん他人には迷惑をかけたらいいと思います。
人間は他人に迷惑をかけ、そして迷惑をかけられるために生まれてきたのですから。