普通がいいという病
今日は平成22年2月22日で全国各地の駅では記念の硬券切符がすぐに売り切れたようです。個人的にはあまり興味がないので買いませんでしたが。2は私の中で最も嫌いな数字です。二元論、二項対立、二大政党制・・・2という数字は一般的にあるものを対立させる作用を持っています。その対立は細かいことを無視してしまう横暴な多数決の論理をもってしても解消することはありません。確かに1と0で物事を考える2は分かりやすい。コンピュータやデジタル回路、神経回路が好きな私もその重要性は認めます。でも本当に大事なもの、本質的なものとは1と0の間、いやそれとは別の次元にあるのです。そういう点で私は2という数字に対して「仮」という称号を与えたい。本質的なものではなく、考えるときの「仮」の指標。仮住まい。論理のような見かけ(=仮)の完全性と同時に、本質的な不完全性を持つ数字がこの2という数字だと思います。
さて、ようやく大学の試験が終わったので本を借りてきました。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)
- 作者: 泉谷閑示
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/10/21
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その中で一つだけ紹介しておきたいのが「浅い感情」と「深い感情」という概念です。浅い感情とは頭由来のもので、頭にシミュレートする作用があるゆえに、何かを期待していてそれが叶わなかった時などに現れる感情や頭の意見に反対する意見を見かけたときに抱く感情だそうです。一方、深い感情は心由来のもので、今ここに反応するもので、その場で起こる喜怒哀楽の感情のことなんだそうです。但し、筆者の指摘によれば現代人は頭のコントロールがあまりに日常的に行われているために、全く純粋な深い感情と少しでも頭の雑念が入った感情というのはなかなか区別できないのだそうです。
そういう視点で先日の書記官ブログの話をさらに突き詰めていくと、犯罪遺族の感情の中にも「あるべきだ」思想からくる「浅い感情」と本当の純粋な「深い感情」の二つの感情があるのではないかという仮説にたどり着きます。実際、遺族本などを読んでいてもなぜか共感できる記述と違和感を覚える記述があって、だいたい違和感を覚える記述というのはその裏に(頭の作用の代表である)強烈な思想や道徳観が見え隠れするものが多い。昔、遺族批評で「怒りの感情は出せばいいし、それは正しいもの。でもそこから繰り出される思想や運動は間違っていたり、ズレている可能性が高い」というようなことを書いた覚えがありますが、あながち間違いではないのかもしれません。
私があのブログに自分の中のどこかに強烈な共振を感じたのは、おそらくあのブログにもやはり「浅い感情」と「深い感情」的な部分があり、「深い感情」的な部分が語りかけてきたからなのかもしれません。一方でやはり「浅い感情」的な部分もやはり見られるわけで、そこには違和感を感じたのでしょうか。それともその違和感自体が実は私の中でしつこく働き続ける「頭」が感じたように偽装したものだったのかもしれません。もしかしたら、その両方なのかもしれませんね。
浅い感情と深い感情を区別するというのは現代人にはきわめて難しいことだと思います。