「いのちを大事」の本当の意味

少し古くなりますが鳩山の「いのち」演説はなかなか笑えました。そんなに命救いたければ、医学部に入りなおせば?なにか実感の伴わない「いのち」の連呼は軽いものです。

さて、よく世間でも「いのちを大事に」ということはひっきりなしに言われます。これを少しでも否定すると悪魔のような扱いです。でも、世間で言われる「いのちを大事に」は何か違和感を感じます。なぜなんでしょうね。

一つは「いのち」に価値の大小があてはめられることへの違和感です。たとえば、動物殺戮とかで「いのちを無駄にするな」とか言います。でも、「無駄ないのち」ってあるんですか?逆に「有益ないのち」とは?

そもそも無駄とか有益とかいう価値とは人間が勝手に作り出した概念に過ぎず、しかも個人個人で違うものです。その価値判断の主体である本人の存亡が関わる「いのち」に価値なんてあるでしょうか。ある「いのち」(全体)の価値は本人が死んでから(いのちを全うしてから)しか評価できませんが、死んでいる以上、価値を評価する人間もいないわけで、少なくとも自分で自分のいのちの価値を評価することはできません。よって「いのちの価値」は、必ず他人に対しての独断的な評価になります。それは最も正しい意味におけける、「(ある人の)いのち」の価値とは言えません。というかだいたい何十年もの歴史を持つ他人の「いのち」の意義を評価すること自体、傲慢さに満ちています。よく「死に値する」とかいう言葉を聞きますが、これには他人の「いのち」に対して何らかの評価を加えることが前提ですから、相当傲慢な言葉だなと思います。たとえ相手が犯罪者であっても。

もう一つは「大事に」の意味が都合よく解釈されすぎていることです。特に生死にあまり臨場感のない世界では、「どんなことがあっても命は失われるべきものではない」という意味で、「大事に」という意味が使われます。「事故で亡くなることはあってはいけない」とか「戦争で人が死んではいけない」とか。でも、事故も戦争も複数の人間が活動している以上、一定の確率で必ず起こるものです。減らす努力は必要でしょうが全部はなくなりません。その現実を前にしてこういう絶対的価値観を導入することへの違和感は計り知れないものがあります。こういうのを信じている段階で「絶対教」という宗教なんじゃないかと私は思ったりします。

私は「いのちを大事に」というのは、こういった意味を含んだ瞬間に軽々しい言葉になると思います。若者が反発するのも当たり前です。軽いんだもん。

私の中で「いのちを大事に」がそれなりに重い意味をもつな、と思ったのは裏を返して「死はいつも隣にある」という意味だと解釈したときぐらいです。