過失を罪に問うても誰も幸せにならない

私が常に一貫して主張し続けていることですが、故意犯罪に対して厳格に刑罰を適応することは合理性がある一方、そういう行為を起こすつもりのなかった過失に対しては基本的に罪を問うべきではないと考えています。実際に刑法38条でも、罪を犯すつもりのないものには原則罪に問わないとされています。

なぜ、罪に問うべきではないか。答えは単純。誰も幸せにならないから。それ以上でもなければそれ以下でもありません。

まずは、遺族の立場から。
過失で人を亡くせばとても辛いし悲しいですが、どれだけ相手を責めたてても死んだ人が帰ってくることはありません。この世とあの世はダイオードのようなもので継がれているので一方通行です。それは神様が決めたことだから変えようがありません。ただ手元に残されるのは記憶と悲しみだけ。
もちろん相手に悲しみはぶつけたらいいと思います。「なんてことしてくれたんだ!」と叩きまくってもいいでしょう。私の印象に強く残っているのは福知山線の事故のとき、JRの社員にバッグを何度も叩きつけて、付き添いの人からなだめられていた女性の姿です。相手に怪我を負わせなければ叩くぐらいは傷害罪にはあたらないと思います。夜中に思いっきり泣いてエネルギーを発散させるのもいいでしょうね。そうやって気持ちは出したらいいです。そういうものは世間の目がどうであろうと関係ないことなので、抑えないほうがいいです。「男なら泣くな」「死んだ人が悲しむから泣くな」などいうことがよく言われますが、くだらない言葉だなと思います。近所中が泣き声で目を覚まそうが泣けばいいのです。叫べばいいのです。それは大切な人を亡くした人に認められた権利だから。

一方で、裁判で厳罰を求めるというのはどちらかというと、そういう感情とはまた違った作用が働いていると感じます。「こうしていなければ、この人は死ぬはずはなかった」。人生やこの世界をあたかも完全に人間が制御できるかのような期待。遺族でなくても、多くの人が自分の思いどおりにならなかったときによく考えることですが、果たしてそうでしょうか。人間はいつでも死にます。いつかは死にます。人間がこの世を制御している範囲なんてちっぽけなものです。重力を制御できますか?天気を制御できますか?中国では天気を多少制御しているようですが、それでも根源的な現象は神がつかさどっています。医学を学んでいればわかりますが、私たち人間だって人間が自らの意思で制御できる範囲はごく僅かです。よくわからないけど、人間とは違う誰かがこの人間という複雑なシステムを作り上げてきた。人間ができることは、薬を入れてパラメーターをいじったり、出来上がったシステムの一部を物理的に切り落としてしまうことだけ。人間がシステムを一から作ったわけではありません。

実のところは、そもそも過失裁判の根拠でもある「こうしていなければ、この人は死ぬはずはなかった」という考えそのものが深いレベルで大きな間違いを犯しているのです。そのことに気づけば遺族の苦しみというのも、質的な変化が訪れるだろうということを私は確信しています。自分が何かの遺族になったら、いち早くこのことに気づきたい。

おそらく、相手を牢屋にぶち込んでもその時にちょっとした満足感が得られる程度で、悲しみや苦しみは相変わらず続くでしょう。幸せなんて感覚はまったく感じないと思います。むしろ、人がいい人なら罪悪感すら感じているかもしれない。そんなさらに辛い目までして背負わなければならないことなのでしょうか?亡くなった人のため?本当にその人はそんなことを望んだのか・・・。残された者が気色ばんで勝手に思っていることだったりして・・・。常に疑問は付きまといます。

一方で、過失を犯した側からすれば、そんなことをするつもりも勿ったのにちょっとしたことで人生のすべてを失うことに。仕事やお金だけならいいですが、刑務所に収監されると家族をも失いかねない。本人はするつもりもなかった行為に道徳的に苦しみ、社会の目に苦しみ、経済的にも苦しむ。幸せなんてどこにもないし、あるはずもない。家族が本人を見放さなかったとしても、今度は家族がその苦しみを負わなければならない。過失犯といえども遺族と同様にやはり一人の人間であり、家族の一員でもあり、地域社会の一員でもあります。民事とは違い、刑事では国と被告人とのやり取り。誰も関係者で幸せになるものはいない。国だって刑務所の管理コストを考えれば得をするわけではありませんよね。

結局のところ、過失の刑事裁判って不幸にする人をたくさん増やすだけで、誰も幸せにならないんですよね。過失に対する罰が厳しければ、同じような行為を行っているさらに多くの人が日常の業務で強いストレスを感じることになり、社会全体が険悪ムードになっていきます。社会も幸せにはならない。

まったく野放しでいいとは私も思いませんが、刑事裁判ではなくて社会的責任(応答可能性)や経済的な補償、再発防止で対応していくべきことのように思えます。そのほうが全体の損失も少なくていい。不幸を増やさなくてすみます。

物事はきちんとけじめをつけるべき?けじめをつけるってことは、嫌な事に禊を済まして忘れるってことですよね。実際には忘れられないけど。大事な人の死ならばやっぱり、モヤっとしたまま持っておいた方がいいんじゃないでしょうか?リセットして誰かと再婚するとかなら話は別ですけど。

よく世間では関係者に「さっさと忘れなよ。次に進めよ」とアドバイスする人がいるようですけど、「忘れない」ということが再発防止につながるので、そのアドバイスは間違っています。むしろ「忘れないように」が正しい。でも忘れないけれども、その中身が質的によりよいものに変化していく、そういった過程は歩んでいかないといけませんね。