善悪の判断とその基準

人間はだいたいにおいて善悪判断をします。たとえば選択肢がいくつかあって、どれがいいかな〜と選ぶときでも、自然と「どれが『いい』かな〜」とbetterとworseを判断するのです。どうも生物が地球上で生き残る過程で、よりよいと思う方を選択してきた歴史から、betterとworseの判断をすることからは逃れられないようです。

しかし、何がbetterで何がworseかという善悪の判断基準については、これといって絶対というものはありません。捕鯨問題でもそうでしたが、国が異なれば同じ事象に対して善悪の判断は全く異なるものになりますし、時に人は死ぬことすら生きることよりbetterと考えることもあるからです。現代の社会ではこの判断基準は発達の過程で、親や教師から「刷り込み」あるいは「条件づけ」といった生物学的プロセスを経て非自主的に吸収していくものが大半です。つまり、我々が当たり前のように持っている善悪の判断基準は決して自分で考えたものでもなく、当たり前であることもなく、自分の親や教師、さらには社会全体、そしてその元となった昔の社会や先祖から否応無く引き継がれてきたものである、といえるのです。「これが自分」と思っているものは実は殆んどが他人からできている、それが人間の本当の姿です。

従って「自主性が大事である」とか「個性的であることが重要だ」というようなことがいわれる現代ですが、私はもしも本当に自主性や個性を求めるのならば、安易に髪の毛を茶色にしてピアスをしたり、ボランティア活動に参加するのではなく、まずは親や社会によって我々が幼少期の間に刷り込まれてきた「気付かぬ呪縛」にいち早く気付き、そこから解放される(メタ認知をして相対化する)ことが必須であると考えます。これは真の自分を取り戻す、ことにも繋がるのではないでしょうか?

では、少しだけ呪縛から解放されてみましょう。

たとえば次の命題は正しいことですか?なぜ正しいことなのですか?もしも正しくなかったら?
「法律を守ることはいいことで、法律を破るのはわるいこと」
「勉強ができるのはいいことで、勉強ができないのは悪いこと」
「時間を守ることはいいことで、遅刻は悪いこと」
「他人のことを考えることはいいことで、他人のことを考えないことは悪いこと」
「親孝行はいいことで、親不孝は悪いこと」
「友達を作ることはいいことで、友達を失うことは悪いこと」
「障害がないことはいいことで、障害があることは悪いこと」
「健康はいいことで、病気は悪いこと」
「褒めることはいいことで、悪口をいうことは悪いこと」
「喜びはいいことで、悲しみは悪いこと」

一般感覚からすると、たった10個の「ごく当たり前」の命題ですが、これだけでも随分と我々はいろんな呪縛に縛られていたんだなぁということが分かるはずです。ついでに言えば
「正しいことはいいことで、間違っていることは悪いこと」
という11個目含めると本当に訳がわからなくなりますね。

私は別にこれらの「常識」を全部逆さにすることが重要であるといっているわけではありません。そんなことをすれば社会は一瞬で崩壊します。ただ、「当たり前」は決して当たり前ではなく、ある時代や場所において便宜的に定められていったものでしかない、ということに「気付くこと」が重要だといっているわけです。

普段生活しているときは、あるいは外面では、この「当たり前」というマントを身につけてもいいじゃないですか。もちろん、時には反発して外してもいいと思います。でも、これはあくまでマントであって、私自身ではないのです。マントと一体化する必要などありません。内面ではマントを外したっていいのです。いつでも外せるのだということを頭に片隅に置いておくだけでも、随分と違うものです。

いつも自己嫌悪で苦しんでいる人、よく考えてみるとこういう呪縛に囚われていませんか?苦しみから逃げようとして、マントをさらに密着させて中の自分を締め付けていませんか?あるいはマントを自分自身と勘違いして、嫌なマントを取り去るために自分をも傷つけていませんか?

私はもともと「当たり前」に疑問は持っていたのですが、最近ある本のおかげでこの呪縛から解放されつつあります。なんだか空を飛んでいるような気持ちのいい気分です。皆さんもお試しあれ。