外資アレルギー

先日、NHKの日本とアメリカという特集で在日米商工会議所(ACCJ)会頭の悩みが紹介されていましたが、やはり、日本の外資アレルギーというのは相当だということを強く感じるのだそうです。まぁ、医療界を見ていても混合診療に反対する最も大きな理由は「保険会社反対」であるわけですが、その裏にあるのは外資アレルギーからくる「外資反対」であることはほぼ間違いありません。しかしながら、経済がグローバルしている中で外資を除外していては成長もへったくりもない。いろいろ見ても、投資があるところには必ず成長があります。日本人が国内に投資しなくなっている現状で外資を除外すると、長期的には致命的な影響を及ぼします。まさに自ら沈没することを望んでいるかのようです。

かつては「外資」といえばアメリカ資本を指していましたが、現在ではそれさえも非常にグローバル化しており、中東のオイルマネーや各国の政府系ファンドなども台頭してきています。外資アメリカという考えはもはや時代遅れであり、外資=世界と考えねばなりません。定義的には当たり前の話ですが。日本はアメリカの一員かどうかは別にしても世界の一員ですから、世界を拒絶する必要は全くないわけです。日本人だって昨今は海外に投資している。成長の見込めるインドやブラジルなどに投資する日本人の数は相当です。だいたい日本からインドへの投信だけを見ても6000億円以上が入っています。インドの株式市場というのはそこまで大きくないですから、投信も株式への比率を減らして債権などに投資せざるを得なくなっている状況です。そんな中で日本だけが外資拒否の姿勢をしていれば、世界に背を向けたのも同然なわけです。当然、これがいまのジャパン・パッシング、ひいてはジャパン・ナッシングの一要因になっていることは言うまでもありません。

もちろん、たとえば日本の占領を狙う他国政府が外資を利用して重要なインフラを思うがままに制御してしまう、というようなことには問題があります。しかし、それは日本人の中でそういう悪だくみを持った人間が海外勢力とつるんで行っても同じことです。そもそもグローバル化により投資関係が複雑になっている中で、海外資本と国内資本をどう区別するのか、それすら反対論者は明確にしていません。東京市場の取引の4割は海外の投資家である、すなわち国内企業でも多くの海外資本が入っているということを忘れてはならないと思います。逆に海外企業のもとになっているのが実は日本からの資本であったということも十分にありうることです。これらのことから、外資規制は世界に対する背信行為であること、そもそも現代において外資を規制するということ自体に実質的困難を伴うということがいえるかと思います。

では、そういう悪だくみをする勢力に対して手立てはないのか、ということですが、それについてはそもそもそういう行為自体を法律で規制すればいいわけです。たとえば、混乱を目的として電力を故意に止めるようなことをたくらんだ場合、政府がそれを阻止できるようにする、実行犯を重罰に処す、というようなことで対応すべきことです。少なくとも重要な国内インフラについては国内に施設があるわけですから、サイバー攻撃を除けば実行犯を捕まえることは可能です。そもそもシステム化した社会において、そういう行為を100%防ぐということはどんな手立てをもってしても不可能です。もし、外資を規制することでそういう行為が防げると考えているのなら、その考えは捨てた方がいい。再びオウムが現れたらどうするのかということです。私は外資よりもスピリッチュアリズムの方が危ないと思いますがね。

日本は単一民族国家に近い国だし、周囲を海で囲まれているので、「民族や人種で内外の区分をしよう」とか「国内は味方、海外は敵だ」という考えは分からないことはない。実際に在日への差別だとかはそういう意識から来ていると思います。しかし、世界的に見てそういう国家は決して多くはありません。多くの日本人が前提とする海外像そのものが、国際社会の価値観と大きくズレているように感じます。グローバル化と情報化が進み、まさに島宇宙化していく社会では、そういう考え自体が甘いと私は思います。同じ民族内にも敵はいるし、海外にも味方はいる。つながるベースになるのは思想だけ。それが真実だと思いますし、だからこそACCJも外圧をかけずに日本国内の自発的改革勢力を支援する方向で動くわけです。

そもそも私は日本人であるというアイデンティティを持っていれば、無理に海外を排除する必要はないわけです。反対論者の殆んどは実はアイデンティティを持っているように見えて、あんまり持っていない人が多い。自分でアイデンティティを持とうとせずに、国家にアイデンティティを依存するから、国に今までとは違う勢力が入ることを怖がるわけです。もっとも、私もそこまで強いアイデンティティを確立できているわけではありませんけれどもね。ただ、少なくとも、世界レベルから個人レベルまで色々なサイズでの帰属意識があるので、国家への帰属意識がすべてというわけではない。どっちかというと、日本人というより関西人という帰属意識が高いし、医学部だとか鉄道マニアだとかいう帰属意識もある。だから状況に応じて使い分けをすればそれでいいと思っています。海外の人と付き合うときは、自分は日本人だと意識をすればいいし、関東人と付き合うときは関西人だと思っていればいい。当然、アイデンティティというのは他者と比較して「違い」であると同時に「同じ」であるという意味もあるわけですから、海外の人と付き合うときはその業種で共通した意識を持つだろうし、関東人と付き合うときは同じ日本人だと思っていればいい。それだけのことだと思うんですがね。複数レベルでのアイデンティティの使い分けが出来ないから、海外を拒否するのだろう・・・私はそう感じますけれどもね。

ちなみに、上は私なりのアイデンティティの考え方ですが、いわゆるアイデンティティという言葉の起源である欧米社会でのアイデンティティの考え方というのは、これとは少し違うような気もします。その辺は海外の人と付き合って経験を積んで考えるしかないですね。

とにもかくにも、外資規制は空港であろうと医療であろうと私はあんまり前面に押し出すべきことではないと思います。世界への背信行為ですからね。複雑化した社会の中では資本の由来ですべては決まりません。それよりも、資本の根本にある思想だとか、なにか悪さをする行為そのものに対して規制や監視を強化していくということが現実的対応策ではないかと考えます。