産婦人科学会が好きでない理由

僕自身は医学部に入る前から、強いて言えば医学部を目指す前から産婦人科学会(正式には日本産科婦人科学会)があまり好きではないし、内診問題での助産師とのゴタゴタを目の当たりにして余計にアレルギーが増悪しましたが、何故もともと産婦人科学会に批判的なのか、その理由をここではっきり示させていただきます。当然、多少の反論が来ることは覚悟のうえです。その理由がただでさえ少ない産婦人科医を志望する者が少なくなる一つの要因になりうるからです。

それは生殖医療に対する学会の態度です。神戸のJR六甲道から少し登ったところに大谷産婦人科という病院(有床診療所かな?)があります。私にとっては灘区や東灘区は7年間通い続けただけに馴染みの場所です。あの地域で開業している産婦人科医の家系で、着床前診断という先進的な生殖補助医療を行っていることで非常に有名になりました。着床前診断というのは、遺伝子的な問題、たとえば染色体異常等により子供に重度の障害や母体への危険が予測される場合において、体外受精させた受精卵の一部を採取して染色体等の診断を行ったうえで、危険性が少ないと判断された受精卵のみを子宮に戻すという生殖補助治療の一種です。不妊や重度の遺伝病の可能性がある場合に実施されます。

日本産科婦人科学会着床前診断自体は認めていますが、学会への申請が必要な上に、その基準も当時は非常に重い遺伝性疾患に限るとしており、いくつか出された申請もほとんど認められませんでした。その点に不満を持った一部の医師が学会の方針に反して着床前診断を実施したわけです。当然、習慣性の流産などで苦しんでいる患者さんがいらっしゃることを考えれば、そういう患者さん思いな医師がいてもおかしくない。実際、大谷産婦人科の院長は海外で学んだ高度な細胞操作や分子生物学的技術を駆使して、多くの患者さんに希望を与える医療を実践されているわけです。

もちろん、これが普通の治療法ならばそもそも学会が原則禁止をするはずはありません。この治療法には倫理的な問題を抱えています。すなわち、

  • 受精卵や生殖細胞に手を加えている
  • 病気でない受精卵が選別されるため、優生学的危険をはらむ
  • 病気や危険の回避ではなく単なる産み分けのために利用される可能性がある

この3点です。

1番目に関する反発は日本では宗教があまり浸透してないこともあり、特に異論を唱える人はいません。実際、すでに100人に1人行われている体外受精も生殖への介入行為であり、もはやこれ自体には倫理的問題は存在しないと考えてもいいでしょう。
2番目に関しては患者の「高いリスクを負いたくない」「子供を障害で苦しませたくない」という切実な願いと、障害者の「障害を持っても他の人間と同じように生きる権利がある」という主張がぶつかります。実際、大谷産婦人科には障害者団体から抗議文が送られ、テレビでも報道していました。ただ、私が思うのは「遺伝性難病を持った子を産みたくない」ということが障害者の人権を否定したり、差別を助長すると考えるのは無理があるのではないか、ということです。
どういうことかいうと、「自分や子供が重病や障害を持ちたくない、大変な思いをしたくない」ということは健康人なら誰もが思うことであって、だからこそ結果的に健常者に「大変な思いをしているだろう障害者にはちゃんと配慮すべきだ」「障害者の人権を大切にしよう」という思いが生まれてくるのではないかと私は思うわけです。障害者の方からすれば、健康人には「障害を持ちたくない、障害=嫌なもの」という考えすら持って欲しくないという気持ちがあるのかもしれません。それは想像ではありますがなんとなく分かります。ただ、残念ながら現実にはそれは難しい。やはり、障害のある方を世話するということは、現在の社会保障システムでは相当な心労と経済的負担が要求されますし、老老介護で殺人事件が起きてしまうように、中には気が滅入ってしまう人も出てきてしまうでしょう。そういうことを考えれば、差別感情を取り払って客観的に比較をしようと努力をしても、やはり障害を持つということは健常人にとってはできる限り避けたく思ってしまうものなのです。この現実を簡単に変えられない以上、健常者の「障害=嫌だ」という意識は認めながらも、健常人に障害者に配慮することを求めていくことが現実的な路線ではないかと思うのです。本当に残念ですが・・・。私も含めてほとんどの健常者は障害者にならない限り、障害者の真の気持ちは分からない・・厳しい現実です。
着床前診断を求める患者にいわゆる「障害=嫌だ」という意識があることはおそらく確かでしょう。でも、着床前診断を求めない患者もそう思っています。両者の違いは障害を持つリスクについて知っているか、ちゃんと考えているか、あるいはリスクを受け入れる心の準備ができたのか、ただそれだけの違いだと考えられます。従って、着床前診断が(表面上の)差別を助長するということはほとんどないでしょうし、(内面上の)差別意識の問題には、そもそもこういう議論が出てくるという背景を踏まえた別のアプローチが必要なのではないかと思います。(私の言いたいこととしては、中絶願望という結果の善悪を議論する前にその原因となった社会的背景の議論をすべきだということです)

一方、障害者の問題から離れて「そもそも生まれてくる子供を選別することが許されるのか」という議論もあると思います。これに関しては個人の価値観も絡むので簡単に結論を出せるわけではありません。しかし、着床前診断に関しては一つの判断基準として、「現に生まれてくる子供を選別する方法はこの着床前診断しかないのか」ということが重要だと考えられます。すなわち、他に同様のことをする方法があるならば、他にも同様の例があるということで、着床前診断が越えなければならない倫理的ハードルは相当低くなりますし、逆に着床前診断によってしかできない行為なのであれば、慎重に事を進めなければなりません。

日本では堕胎は刑法により原則禁止されているものの、議員立法によって昭和23年に優生保護法が制定され(97年に母体保護法に変更)、一定の条件の下で人工妊娠中絶が認められています。その条件とは

  • 都道府県医師会が指定した母体保護法指定医によること
  • 妊娠満22週未満であること(通知による)
  • 妊娠や分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れがある
  • あるいは強姦などによって無理に妊娠させられたもの
  • 原則本人と配偶者の同意があること

単なる互助組合である医師会の指定というのもおかしな話ですが(厚生省と産婦人科学会が指定権をめぐって争ったらしい。この学会は何かと政府と犬猿の仲のようで。そりゃ、そっぽ向かれるわ。でも勤務医師会ができたらこの法律どうするつもりだ?麻酔と同様に厚労省に一元化するべきだろう)、指定された医師にしか人工妊娠中絶はできません。また、理由も優生学的な規定は97年の改正以降は削除されているため、単にそういう理由では中絶できないのですが、現実には「経済的理由」により中絶が行われているケースが殆んどのようです。もちろん、本当に困窮していて障害者を育てることができないという場合もあるでしょうし、単なる隠れ蓑の場合もあるでしょう。ただ、現実に着床前診断以外の出生前診断で重度の障害があると分かれば、現時点でも適当に理由をつけて中絶を行うことは可能ですし、実際にトリプルマーカーや羊水検査などを使って診断が行われ、数多くの中絶が行われています。従って、すでに子供を選別することへの現実的な倫理バリアは乗り越えられており、着床前診断によって新たに大きな倫理的問題が発生するわけではないと考えるべきです。もちろん、選別には代償が必要だからという理由から、患者に(中絶の苦しみという)罰を与える意味で中絶はOK、特に罰を与えない着床前診断は不可とする一般市民の意見もありますが、そもそも患者に罰を与えるということ自体、医療の根源的精神から考えてもおかしなことです。もし、禁止をするのなら障害防止の目的の中絶も明確に禁止するべきでしょう。障害を防止する目的において、中絶はよいが着床前診断は禁止であるという論理は成り立ちません。(なお、着床前診断は法律上、人工妊娠中絶には当たらないと考えられているようで、母体保護法指定医でなくても診断を行うことは可能です)

3番目ですが、報道などを見る限り産婦人科学会が最も問題にしたのはこの点でしょう。学会がどこまで大谷院長の事案を聴取したのかそれは私には知るすべもありませんが、マスコミからの情報では3例のうち2例が男女の産み分けであったというような話も伝わっています。一部のブログ等では、これを単なる営利行為と捉えて糾弾しているところも多い。しかし、遺伝性疾患にせよ、そうでないにせよ病気の発生率で男女に大きな差が見られることは少なくありません。男女比1:3などはまだ大したことはなく、中には1:15の比率で発生率に違いが生ずる病気もあります。また、性染色体に連動している疾患では男性だけに発生するというような病気もあります。当然、このような病気を防ごうと思えば、より発生率が低い性の受精卵を選択することは方針として十分に考えられることです。
これから言えることは、男女産み分けに関して言えば、遺伝性疾患を防ぐための産み分けと、単なる産み分けを区別することは簡単にはできないということです。マスコミの記事やそれを引用しているブログにはそのあたりの検証が全くされていません。現に着床前診断を否定する記事のコメントを見ていると着床前診断を受診したとみられる患者さんの書込があり、大谷産婦人科の男女産み分けはある疾患を防ぐためのもので、その点を考えずに読売新聞社の記者が暴走したのだという指摘がありました。真相はどうなのか、患者のプライバシーもありますからよくは分かりませんが、産み分けに関する議論は医学的な観点からも非常に難しいことが分かります(たとえば、明確なgenotypeの根拠がなくても家系の男子に○○病のphenotypeが多いらしいということが伝聞により分かっていた場合、男女の産み分けは単なる産み分けとは言い切れない)。区別が難しいがゆえに慎重にすべきという批判であれば大変尤もだと思いますが、男女産み分けは即営利目的であるから悪であるというような安易な議論は間違いであることを指摘しておきます。

さて、着床前診断に関する倫理的問題は大雑把に洗い出しをしましたが、私はこれらの倫理的問題があることを踏まえて学会が一つの学術団体の見解・方針として着床前診断を制限することに異を唱えるつもりはありません。倫理的に難しいし、国民の意見も分かれている(大概、診断に賛成する意見の方が多い)以上、そういう意見があってもいいという立場です。個人的にはもう少し緩和してもいいのではないかと考えていますけれどもね。

では、学会の何が気に食わないかというと、大谷院長に対するその後の処遇です。大谷院長が着床前診断を行っていることを明らかにした際、学会に指針に反して行ったことを謝罪する文章を提出し、今後は学会指針に沿うことを誓約しました。このことは、大谷院長が行った学会方針違反は学会方針に対する一種の抗議の意図がある訳であって、学界の権威を反古にする意図ではないのだということが読み取れます。もし、学界の権威を否定するのならばそもそも学会に入らないし(実際に先進的な生殖補助医療を行っているところには少なからず学会に参加していない医師がいます)、わざわざ遜って謝罪文を提出する必要はないからです。意見の違いは明らかにしつつも同胞団体を大事にしようという姿勢を見せたにもかかわらず、学会は最終的に大谷院長を除名処分にしました。

除名処分は会員資格の停止や単なる処分とは違って、村八分として当該会員を排除し、枠の外に置こうとするものです。まさしく産婦人科学会というアカデミズムのムラ体質が前面に表れた処分です。異端を認めない・・・・この古いムラ社会的感覚は現代の都市市民の感覚とは大きく解離しています。村社会の排除主義によって傷つき逃げてきた人を何人も見てきた立場としては許すことができない行為です。また、この学会の排除主義によって新たな問題が生ずる可能性を秘めています。すなわち、学会が確率的に必ず出現する異端(という言い方はしたくないのですが)をも内包することで、異端の予期せぬ暴走を防いでいた側面があるにも関わらず、権威を守るためか社会批判をかわす狙いなのか、学会の外へ放り出したことによって、異端が暴走する可能性が高くなったのです。どれだけリベラル派であっても誰もが越えてはいけない一線はあるわけで、それを越えると倫理的見解の違いというよりは完全な暴走になってしまいます。現に学会の除名処分を受けて、大谷院長は本格的に着床前診断を進めていく方針を明らかにしています。これはまだ暴走の域には達していないと感じますが、確率的見地から言って、暴走する医師が登場するのは時間の問題であると感じます。人間は本質的に多様で自由なのですから。

迎合を見せたにもかかわらずムラ社会論理による排除行動を行った、異端をも内包し、監視する産婦人科の団体としての義務を放棄したという2点から、高校時代から日本産科婦人科学会には否定的な見方をしています。もちろん、倫理的観点としても学会方針は厳しすぎるのではないかという私見もあるのですが、それは二の次です。

ちなみに私は学会が嫌いなだけで個人の産婦人科医の先生にはなんら嫌悪感は持っていません(生まれたときに産科医に「宇宙人の耳」と言われたらしいことはちょっと不快ですが)。ただ、もし自分が産科婦人科になるとなると学会との付き合いは避けられないわけで、そういう点もあって現時点では産科医や婦人科医になりたいとは思わないことも確かです。あとは現場を見て変わるか、それだけかなぁと思っています。

なお、私がリベラルの急先鋒ではないことも付け加えさせていただきます。医学英語の授業で倫理的問題について意見を書いて提出する課題がありましたが、先生によると「患者と医師がインフォームドコンセントをして合意できたのならば、何でもやっていいじゃないか」というような意見が何件かあったそうです。その先生が受け持っている人数が60人程度であることを考えると、その割合は相当なものです。現代の若者は一般的に私と同様ムラ社会権威主義を嫌っていますし、自由を大事にしています(新医師臨床研修制度での学生の選択を見れば一目瞭然です)。私の目から見てそれだけの割合が強い自由主義を主張していたとしても、なんらおかしいことはありません。倫理は時代とともに変わるのです。色々な世代や層から幅広く意見を聞く。そういう排除主義とは対極にある姿勢で臨まなければ、都市化と自由主義の浸透するこの世の中で学会が支持を得ることはできないと思います。

最後に、グローバル化している社会の中である国が倫理的見地からある行為を規制したとしても、他に規制しない国があればそこにメディカルツーリズムとして流れるだけであるという厳しい現実があります。現に腎臓を求めて中国やインドへ渡航する患者は数知れずです。このような国を越えた問題に対してもこれからは考えていかなければならないでしょうし、ローカル主義のムラの論理ではこの手の問題に対応しきれないということも指摘しておきます。