踊る大捜査線?

現場警戒に警官8人、市民8人殺傷防げなかった
「早く捕まえてごらん」って、踊る大捜査線を思い出しますね。さらにアキバオタク、ゲーマーと来ている。

社会全体が荒廃してきているのもあるでしょうが、ためらいもなく人を殺せる人が増えているような気がするのは気のせいかねぇ。酒鬼薔薇を思い出す事件ですが。

ちなみに酒鬼薔薇事件で校門前に置かれた手紙。

さあ、ゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君、ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
私は殺しが愉快でたまらない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇

「人の死が見たくてしょうがない」ですか。
性教育より死の教育をした方がいいように思いますがね。
現代はあまりに仮想空間の死のイメージが強すぎるんですよ。

いわゆる名著の中で人を斧で殺すような小説はあるわけですが、ゲームとの決定的な違いは死にいたるまでの経過が長いことです。心の迷いや葛藤、その後への想像など色々な過程を踏んで最終的に殺人に至っている。それだけで小説の半分近くを占めることがあります。しかも事件そのものの描写はそこまで長くなく、あっさりしたものが多いんですよね。ところが、ゲームではそういう心の迷いはストーリーのほんの一部でしかない。
さらに大抵のゲームでは「死」の一部しか捉えていないわけです。すなわち、主人公なりなんなりが誰かと戦って、あるいは何かのせいで死ぬ。その先に関する描写はない。キャラ設定が人間でない場合があることも一つの原因かもしれませんが、悲しむ遺族もいなければ、「あの人亡くなったらしいよと」噂話をする世間もない、死後に遺体が2、3日してどうなるかといった描写も殆んどない。日本では仏式で死者を送る遺族が多いわけですが、そういうプロセスだって書かれていないわけですよね。
たとえそういう描写があったとしても、遺族の中には何年たっても死をなかなか乗り越えられない人がたくさんいるのだという現実(それは決して悪いことではないし、そういう人を見下す風潮があるのも大きな問題)をあるがままに捉えたような作品というのはありません。「乗り越えろ」と口で言うのは簡単ですが、人によってはそれがいかに難しいか。いかに時間をかけないと克服できないか。ある意味、ゲームはすべてが理想というか、「きれい事」で完結しているんですね。

僕もたまにゲームをやりますが、すごく死に対する扱いが軽いということはいつも感じます。