この世界は人間と神の領域の融合

こんな記事を見つけました。
「刑事責任追及に違和感」
趣旨には同意しますが、一部の説明に問題があるように思います。この部分。

電車事故などは人間がつくった機会を人間が扱うことで起こる事故。医療事故は神がつくったものを人間が扱うことによって起こるものなので、全く違うものだ

たとえ、鉄から人間によって造り起こされる電車であったとしても、鉄やアルミの動態がすべて分かっているわけでもなければ、電気的なことであったとしても、説明がつかないことが起こるというのは日常茶飯事です。数ある事故の中には専門家ですらその危険性に気付かなかったということも少なからずあり、事故が起こるたびに研究がなされ新たなことが見出されてきました。また、運転士や作業員も神が創った人間である以上、かならず他の人間が想定していないことをします。その逸脱度が大きければ、すぐに事故になりますし、逸脱度が周囲が許容するほどの小さなレベルであったとしても、関わる人間が何万人にもなる複雑で大規模なシステムで動かす以上、システム末端の人間が何気なくやったことが、システム全体に想定もしないような影響を及ぼし、事故につながります。その点でいえば、人間が造った物を扱おうが神が造った物を扱おうが、人間には認識したり制御したりすることが不可能な神の領域が存在します。

(中には神と人間を分けること自体ナンセンスという意見もあるでしょう。確かに人間も神が造った物。人間が造ったからと言って科学的に完璧なわけがない。危うさを秘めながら、分からないことも多いながら、それを出したほうが多分人間社会の利益になる、と多くの人が考えるから、製品が出回ることになるわけです。)

外科学会会長の発言から考えるなら、神の領域と人間の領域が混じり合っている点で、私は電車事故も医療事故も全く同じだと考えます。医療事故は確かに神の造った小さなシステム「人間」を扱っていますが、電車事故では人間が造ったとはいえ、一度にそれを末端まで認識するのは不可能な、神の領域に近い巨大システム「鉄道システム」を扱っています。素材まで含めればどちらにもまだまだ分からないことがたくさんあります。いわゆるバタフライ効果のようなものも存在します。確率論でしか扱えない領域があります。ぱっと見で違うように見えるのは互いの領域の歴史を知らないからだと思います。

私はそもそも事故の過失を刑事的に追及すること自体に違和感を感じます。いわゆる、重過失であったり、飲酒運転のように故意が絡んだことによる過失については追及やむなしと思いますが、一般の偶発的な事故の過失を追及する意味は感じません。無意味です。

この会長がご存知だったかは定かではありませんが、航空機や鉄道の事故調査の領域でも刑事免責が必要というという声は常に聞こえてきます。安全の専門家も免責を導入すべきと主張しています。おそらく、外科学会の会長は政府自民党の医療安全調原案が航空鉄道事故調を参考にしていること念頭にこのようなことを述べたのでしょう。しかし、そもそも航空鉄道事故調(ARAIC)にしても、業界からこのような批判が常にあることからも分かるように、決してベストな調査システムが確立しているわけではありません。ただ、政府が第三者的に調査組織を作る以上、政府は国民のものですから業界を知らない世間の意見(遺族感情を含む)もある程度反映せざるを得ません。業界の理想とは違うが、国民に配慮した上で、結果的に今の体制になっているわけです。(ARAICはそもそも信楽高原鉄道事故遺族の強い要望によって作られた)

したがって、おそらくこの会長や一部の理解のない医療関係者が言いたいことであろう
「鉄道と医療は全く違う → 航空鉄道事故調と医療安全調は違うべき → 安全調を作るときに航空鉄道事故調を参考にするな」
という意見は全くの的外れであることは明らかです。

今回の医療安全調でもそうでした。当初は医療界は免責制度を含めた理想的な調査委員会を思い描いたからこそ、自ら調査委員会を作ってくれと言い出したのでしょう。しかし、最終的には法曹界や遺族、国民、マスコミの強い批判によって最終的には、刑事の民事の免責もない制度ができあがりました(もっとも刑事については今より限定的に行うことは方針として示されている)。この調整メカニズムは事故調査委員会を政府に作らそう、すなわち政府の権威と信頼性を借りて事故調査をしようとする限り、避けては通れない仕組みです。その一方で、政府のお墨付なしには司法権、すなわち国家的に裏打ちされた個人に対する武力の行使を防ぐことはできません。なんとも解決しがたい社会の不条理さです。

(もちろん、ヒトラーのような独裁体制ならば、為政者と仲良しであれば、そんなことはすぐに解決してしまうでしょう。しかし、果たしてそのような独裁体制が国民や医療関係者に最終的に利益をもたらすかについては大いに疑問です)

医療事故でも電車事故でも事故の本質は同じです。理想とする調査委員会の姿も同じです。しかし、世間やマスコミ、遺族の意見がその実現を阻みます。この介入が嫌ならば、国家的に裏打ちされた免責を放棄してでも独自に調査体制を作るか、民主主義を放棄してヒトラーのような独裁体制を望むか、国民や遺族を丁寧に説得するよりほかはありません。どれが一番よい選択肢であるかは言うまでもないでしょう。

一つだけ医療と鉄道の違いについて述べておきます。あくまで医療と鉄道の違いであって、医療事故と鉄道事故の違いではありません。鉄道は福知山線事故でJRが止まったときでも人々が時間はかかってもなんとか宝塚から大阪に出ることができたように、大概の場合、代替手段があります。他の鉄道会社であるとかバスや自動車や飛行機を使うという選択肢です。私はバスとか飛行機の方が事故リスクは高いとは思いますけれどもね。ともかく、少なくとも日本では鉄道は入れ替え可能であることは確かなのです。
一方で差し迫った患者が来る医療現場では、全身管理や病態などの問題から、そこにいる医師が対応しなければ患者が死ぬケースが往々にしてあります。このような場合、ミスの可能性が高いからと言って遠くの別の医師を呼んだり、治療をやめるわけにはいきません。また、現在の日本の法律では患者を拒否することもできません。逆に患者もそういう状況ではリスクが高いからといって、医師を選ぶこともできない。医療は代替手段がないのです。使い方には問題がありますが、まさに「入れ替え不可能」なのが医療です。

その点は考慮されてしかるべきだと思います。ただ、おそらく調整を担当している立場からすると、それが「警察権力の謙抑的介入」なのでしょう。死傷者が発生した航空鉄道事故では警察が否応なしに介入してきます。ARAICの立場もあくまで警察と平行して調査を行うだけであって、証拠の取扱いなど主な優越権は警察にあります。一方で今回の安全調案では警察庁検察庁との合意が守られるとすると、一般的な場合、まず安全調が調査を行い、その中で刑事責任を問うべきものを警察に通報するという仕組みになっています。ここでの優越権は明らかに警察ではなく安全調にあります。すなわち、医学的によっぽど不適切なものでない限り、刑事責任を問われる可能性が現行より低くなるのが特徴です。

「代替手段の有無」という医療と鉄道の違いが、果たしてこの程度の配慮で済まされていいのか、疑問は私も持っていますが、現在の医療不信や国民感情を考慮すればこの程度が限界なのではないかと思います。最終的にカギになるのは国民の考え方やいわゆる民度と呼ばれるものです。民度の乏しい国では、鉄道事故にしろ医療事故にしろ刑事責任を追及されやすい傾向があります。

余談にはなりますが、なんでも医療だけが特別だと考えるのは医者の驕りだと私は思います。どんな現場にもその分野なりによく分からないことや神の領域はありますし、いろいろな失敗から学んでそれを徐々に克服してきたという歴史を持っています。もちろん、どの業界でもその挑戦は今でも続いています。日本の社会は神を否定するあまりに、たとえ人間が造った物であっても、人間が解明できたことや意図通りに制御できることは決して多くないのだという視点を失ってしまったのでしょうか。ある意味、外科学会の会長が誤解に満ちたことを言っているという事自体、とても悲しいことだと私は思います。

電機業界に進まれた方が「医者はやっぱりワガママ」と言っていました。その方は医者の親を持っている方なので、生半可なイメージで言ったのではないと思いますが、その意図するところは次のようなことだったのではないかと私は推測しています。
「医者は勤務医でもせいぜい数十人数百人の規模で働いている。でも大企業では何万人と一緒に働かなくてはならない。顧客の顔もトップの姿も直接は見えない。巨大な組織のほんの小さな歯車として動く大変さや不条理さを医者は知らない」

何度も言いますが、私は一般的な過失そのものが刑事責任になじまないと思います。医療だけが刑事責任になじまないというのは間違いです。確かに医療は人工物を扱っているわけではありません。しかし、他の業界とて人工物のすべてを理解した上で、人工物を扱っているわけではありませんし、現代ではもはや一般的となっている巨大システムでは、システムが大きいことそのものが、数々の予期せぬ事故を招きます。社会が成熟化し、専門が細分化され、システムが巨大になっている。そんな時代になっているにも関わらず、いつまでたっても個人責任追及型の刑事捜査をしている警察権力や司法そのものがもはや時代遅れなのです。