常識を疑うこと

僕は基本的にコミュニティ内の「常識を疑う」ということをできるだけ心がけるようにしています。「天の邪鬼」とか「ひねくれ者」という指摘はあるかもしれません。しかし、経済成長が鈍化し、グローバル化で社会構造が複雑化している現代においては、従来社会の単純な図式に基づく「常識」に囚われていては成長などできませんし、「常識」を盾に大衆が暴走し、本来複雑な問題を過度に単純化することによって、無理やり問題を解決しようとする事象が往々にして発生しています。こういう不適切な大衆の行動は現代の複雑化した社会における問題の本質を隠し、社会システムそのものの発散や破綻を招きやすいため、このような大衆の「常識」暴走に対して、きちんと疑問を挟んでブレーキをかけることのできる人間も必要なのです。アクセルだけのYESマン集団では、適切な制御が効かないばかりか最終的には不幸な人を増やすだけになってしまいます。その点で「常識や大衆を疑う」ということは重要ですし、公共のために他人とは違う方向に動く人、違う意見が言える人を私は尊敬しています。

話は少し脱線しますが、さらに突っ込んで言えば、本来優秀なチームとはそういう人がいるチームだと私は考えています。誰もが同じようなことをしていては、多様なニーズなどつかめるわけがありません。多様なトラブルに対処できるわけもありません。多様な人間が多面的に物事を捕らえて、その情報を共有することにより、はじめて物事の全体像が見えてくるのです。チームやグループといえば、多くの人は「和」だとか「協調」というものを想像し、場の雰囲気に合わせて自分の意見を言わずに黙っていることが全体のためだという風に考えているかもしれません。しかし、それでは物事を多面的に捉える能力が失われ、チーム全体が大きな間違いを犯していたとしても、誰一人としてその間違いに気付くことはできません。目標さえはっきりしていて共有されていれば、和や空気を敢えて尊ばなくても、内部で多少の意見対立があったとしてもチームは十分にまとまることができます。というか、気付かぬうちに勝手にまとまっているものです。私自身も他のメンバーからの鋭い指摘で助けられたことは何度もありますし、そのたびにチームの素晴らしさや意見を言うことの重要性を感じます。

日本人の悪いところは、チームというと相手のプライドに配慮して控えめにするとか、相互に助けるとかそういう相互扶助や相互配慮ばかりに目がいってしまい、最終的な目標をすぐに見失ってしまう点です。こういう「なあなあ」型のチームでは一度和が崩れると、目標がないために批判や妬みの応酬になってしまい、利己的行動が増えて建設的なことが全く出来なくなります。だからこそ、それを防ぐ目的で日本では「空気読め」なんていう言葉が出てくるのでしょう。しかし、「空気を読む」ということは、チーム全体の向上のアプローチとして間違っていることは上のことからも明白です。問題なのは空気が読めないことではなく、はっきりとした目標がもてないことや、チームで動くときに邪魔になる妙な自尊心や羞恥心の方です。自尊心は自己の存在意義を確かめる目的として重要で、人間が生きるために必須のものではありますが、「自分は出来るのだ」という思い込みに基づく過度な自尊心や、批判されることを恐れる羞恥心は、他人の意見を一つの意見として受け入れることができないばかりか、時にチームとの連携や情報共有を大きく欠かせ、自己のみならずチーム全体を大きな危険にさらすことになります。

過度な自尊心や羞恥心は優秀な人ほどその傾向が強くなるので要注意です。自己鍛錬を追求する人は色々なことができて、真面目さや謙虚さもあり、一見すると素晴らしく見えるのですが、自己鍛錬には「自分は本来ならばもっと出来る人間なのだ。だから鍛錬でそれを実現するのだ」という過剰な自尊心がベースにあるため、チーム行動では思わぬときにその弱点が発揮されることがあります。自尊心はいいこともするし、悪いこともするのです。自身の自尊心をいかに状況に合わせてコントロールしていくか、空気を読むことよりこれははるかに高度なテクニックですし、一生かけて学ばないといけないことだとは思いますが、専門分化が進み、なにかとチームワークが要求される現代では重要な能力だということを常々感じています。なかなか難しいんですよね、これが。

さて、話を本題に戻しましょう。「あるコミュニティ内の常識を疑い、異なる意見を言う」これはコミュニティの真の成長のため、暴走防止のために社会システム上、必ず必要なことです。誰かがやらねばなりません。しかし、常識とは異なることを言うということは往々にしてコミュニティ内の大衆から強い批判を浴び、つらい思いをすることになります(なぜか全体に常に同調することが全体の利益になる、というとんでもない勘違いしている人が多いですから)。「もっと楽に生きれば?」と言う人も多いです。そこらへんは価値観の問題も絡んでくるでしょうね。何を人生の最終目標とするか、「目立つこともなく家族とともに普通の人生を送りたい」という人もいれば、「どんな手段を用いてもがっつり儲けてリッチな生活をしたい」という人もあり、「社会や公共のために必要なことをやる」という人もいます。どれが良くてどれがダメかなんてことはないし、それぞれ価値がある考え方と思いますが、僕はどちらかというと一番最後のタイプの人間でしょう。公共や他人のために働くことにやりがいを感じますし、だからこそ利益最優先ではないこの世界をいつのまにか選んでいたのだろうと自身では思っています。なので、公共のためという信念さえあれば、辛さは大したことはないですし、批判は怖いものではありません。和を尊ぶ人との対立は多いですけれどもね。ブレーキとアクセルの仲が悪いのは当然なので仕方がないことです。正直なところもう少し日本人の集団的同一化体質、いわゆるムラ体質が弱まってくれれば、もっとやりやすいだろうなということは感じます。ブレーキ係にとっては古いムラ体質は最大の敵です。
我々は近代の複雑化した社会に適合した、より進化したシステマティックな全体主義を考えるべきでしょう。全体主義というとファシズムが思い浮かばれますが、あれは真の全体主義ではありません。ある一つの考えに同調しているだけの同調主義です(その点で言えば、ムラ社会も一種の同調主義であってファシズムと同一物です)。真の全体主義とは個人の多様性を認めつつも、全体の利益になるよう個人が自分の考えに基づいて動く社会です。社会のあるベクトルが足りないと思えば、ポジティブフィードバックの一員となるのもよし、ベクトルが惰性で動いていて危険だと思えば、ネガティブフィードバックの一員になるのもよし。個人個人の思い浮かべる理想や利益は異なるし、行動も異なりますが、全員が「この社会をよくしていく」という共通の目標を共有し、それぞれ自律的に考えて動くことができれば、全体の利益は分布や調整という神の不思議な自動メカニズムにより達成することができます。一見矛盾するようにも見えますが、個人主義(≠利己主義)から派生する全体主義こそが真の価値ある全体主義だと私は考えています。