グローバリゼーション・・・それがすべての鍵

1990年以前と以後で、日本人いや世界を取り巻く環境が大きく変わりましたが、その原因を探っていくと必ず出てくるキーワードがあります。それが冷戦終結後の急速なグローバル化の進展です。グローバル化は世界中で激しい競争社会と凄まじい経済成長をもたらしました。同時に世界中の国々に心理的・文化的・政治的な変化をもたらし、副作用として各地で様々な問題が発生し、今に至っています。
「フラット化する世界」で有名なトーマス・フリードマンの著作「レクサスとオリーブの木」という本を今読んでいるわけですが、その中からは引用したい一節が山ほど出てきます。

まず最初に、グローバル化システムは変化のない冷戦システムとは違って、たえず進行形の動的なプロセスである。グローバル化は、市場、国家、技術の情け容赦ない統合を伴っていて、その統合はこれまで誰も経験したことがないレベル、ある側面では個人、企業、国家をかつてないほど遠い世界各地に、より速く、より安く結びつけることを可能にするレベル、またある側面では、この新しいシステムに煮え湯を飲まされたり置いてけぼりを食らわされたりした者たちからの激しい反発を生み出すレベルにまで進んでいる。

オーストリアの元蔵相でハーバード・ビジネススクールの教授でもあったシュンペーターは名著『資本主義・社会主義・民主主義』のなかで、資本主義の本質は"創造的破壊"のプロセス、つまり既存の非効率的な製品あるいはサービスが絶えず破壊され、新しくてより効率的な製品やサービスがそれに取って代わるという、永遠のサイクルにある、と唱えた。(中略)このように技術がめざましく進歩することから、最新の発明はあっという間に時代遅れになるか、ありきたりの量産品になってしまう。そこで、絶えず肩越しに振り返り、自分を破滅に追い込む新製品を創ろうとしている者がいないかどうかを確かめて、絶えず彼らよりも一歩先をいくような、偏執症的気質の者だけが生き残ることになる。

「スレート」誌のビジネス・コラムニスト、ジェームズ・サロウィッキは(アンディ・)グローヴの著書の書評の中で、シュンペーターとグローヴに共通するもの、つまりグローバル化経済の本質をうまく要約した。次のような考え方だ。「革新が伝統にとって代わる。現在もしくは未来が過去に取って代わるのだ。この上なく重要な問題は、何が次に登場するかだが、次に登場するものは、今ここにあるものが崩壊してはじめて舞台にのぼることができる。このため、グローバル化システムは、革新にとって格好の場となる一方で、人が生きるにはむずかしい場となっている。というのも、人はたいてい、絶えず不確実な現実にさらされて生きるより、ある程度将来を保証されているほうを好むからだ」

グローバル化をスポーツにたとえるなら、くり返し行われる百メートル競走になる。何度勝負に勝っても、翌日にはまたレースに出なくてはならない。そして、わずか百分の一秒差で負けても、まるで一時間の大差をつけられたように感じる。

グローバル化というこの新しいシステムによって築かれた情勢は、これまでとは根本的に異なるまったく新しい情勢であり、それを観察し、理解し、説明するには、前述した六つの次元(政治・文化・国家安全保障・金融・技術・環境)で鞘取りをするしかない。つまり、異なる状況、異なる時間において、異なる次元に異なる比重を与えながらも、同時に、現代の国際関係を本当に決定づける特徴は、これらすべての相互作用だということを、つねに頭に入れておかねばならないのだ。従って、点と点を体系的に結びつけて、グローバル化しシステムを観察し、混沌とした状況を整理するには、グローバル主義者になるしかない。

ある日の午後、ゴールドマン・サックス・インターナショナルの副会長ロバート・ホーマッツと話をしていたとき、そのこと(極めて複雑なグローバル化を理解するには六次元の情報の鞘取りであると同時に、理論ではなく簡単な逸話を積み重ねることが必要だということ)に触れてみた。するとホーマッツは、わたしが言いたかったことを手際よくまとめてくれた。
グローバル化を理解し、説明するには、自分自身を知性の遊牧民と考えればいい遊牧民の世界では、念入りに境界線を引いて自分のテリトリーをはっきりさせるということがない。だからこそ、遊牧民のなかで、ユダヤ教イスラム教という一神教が育ったのだ。定住民族なら、この岩、あるいはあの木にまつわるさまざまな神話を創造し、神はこの岩に、あるいはあの木に宿っておられると考えただろう。しかし遊牧民は常に、定住民の世界より広い世界に触れてきた。彼らは、紙が特定の岩には宿っていないことを知っていた。神はあらゆる場所に存在する。遊牧民は、たき火を囲み、オアシスからオアシスへと移動しながら、この複雑な真実を、簡単な逸話によって伝えてきたのだ」

ノーベル賞受賞者でもあり、元カリフォルニア工科大学理論物理学教授でサンタフェ研究所の創設者でもあるマレー・ゲルマンは、かつて一連の講義のなかで、わたしが情報の鞘取りと呼んでいるものは、複雑系を理解しようとして科学者がとるアプローチ法とたいして違いのないものだと論じた。そのとおり。今日の世界では、グローバル化にまさる複雑な政治システムはない。グローバル化を理解しようとするジャーナリスや戦略家は、グローバル化と同じように複雑になることを要求される。ゲルマンは講義でこう述べた。「(中略)わたしたち人類は今、過度に複雑な生態学的、政治的、経済的、社会的諸問題に直面している。このようなむずかしい諸問題に取り組もうとするとき、わたしたちはその問題を、より扱いやすい小さな断片に分ける傾向がある。これは有効な方法ではあるが、なかなか打破できない限界がある。非線形システム、ことに複雑系を扱うとき、断片や局面を見て、ものごとを足し算し、こちらのあちらの反応を合わせれば全体の反応になる、というわけにはいかないのだ。複雑な非線形システムでは、問題をまず小さな断片に分解してひとつひとつの局面を研究し、そのあとでそれぞれのあいだに働く強力な相互作用を研究しなければならない。こうすることでしか、全体のシステムを描くことは出来ない。(中略)私たちは単一の分野の専門家を育成することばかり学ぶのではなく、次元の違うものごとのあいだに働く強烈な相互作用と、その結びつきを見抜き、それから全体を俯瞰する専門家を育成することも学ばねばならない。」

グローバル化を軽視してきた人々にとっては衝撃的な文言が並んでいると思います。いわゆる「年寄り」がぐちゃぐちゃと最近の日本の社会文化に対して文句を言っていますが、こういうことを理解していない証拠だと思うんですね。続きはまた今度。