なぜ医学生は医師増員に反対するのか

日経Medicalで本田先生が医師増員に対するアンケートで医学生から反対意見が多かったことについてコメントされていました。
本田先生の指摘によると、医学生や医師増員に反対する医師は

  • 厚労省の医師需給予測を信じ込んでいる
  • 医学生は現場の医師不足を知らない
  • 医師増員で不利益をこうむる立場である

なのだそうです。

今までの医療制度に関する議論をあまり知らない方ならば、厚労省の需給予測を吟味せずに信じている可能性もあると思うのですが、私は医学生が医師増員に反対する本当の理由は、もっと別のところにあるのではないかと考えています。

理由その1:職がなくなる、食いっぱぐれることへの恐怖心

いまどきの医学生の年代、すなわち1980年代生まれの人間というのは、バブル崩壊後の失われた10年に多感な青春時代を過ごしてきました。親の世代は大規模リストラの対象となり、一つ上の世代は就職氷河期で辛酸を嘗めさせられていました。完全失業率が5%を越え、日経平均株価も一万円を割る中で、我々はいつも親から「いつ職がなくなってもおかしくないのだから、ちゃんと勉強しなさい」「勉強しないとクビになるで」と脅されて育ってきたのです。そんな中で「安定して高収入が得られる」「食いっぱぐれがない」との理由から医学部が高い人気を誇るようになりました。平成不況と最近の医学部人気は強く連関しているのです。
従って医学生の中には「医者になって何かをしたい」というよりも「安定した職につけるから」という理由で医学部に入ってきている人が少なからずいますし、純粋に「医者になって人を救いたい」と思っていても、二つ目か三つ目の志望理由に「食いっぱぐれがない」という点を挙げている人はかなり多いです。
私も含め、そういう人にとって、「職がなくなる」ということは「過労死する」よりもはるかにアレルギーの強い言葉です。医学生が「職の安定を求めて医学部に入ったのに、いきなり医師増員1.5倍とは何事か」となるのも当たり前です。本田先生を含め上の世代の先生方には職がなくなることへの異常な恐怖感は分からないかもしれませんが、我々の世代では誰もが持つ共通認識と言っても過言ではないでしょう。医学部はともかく、最近の大学生が真面目だといわれる理由もこの恐怖感によるものであることは疑いの余地がありません。

もっとも、あの程度の定員増員でタクシードライバーのドクターが生まれるか、といえば私自身も疑問に思います。ただし、国の政策はいったん走り出すと止まらないという性質があり、1.5倍の定員を維持したまま何十年も惰性で突っ走られると、ワーキングプアーの歯科医師同様の状態になるのでは、という懸念はぬぐえません。実際、厚労省の技官でもそのような懸念を強く持っている人は少なからずいるようです。医師がワーキングプアーにならないように、彼らも彼らなりに頑張っていて、その結果が医師偏在論なのです。(裏を返せば厚労省技官は、医療費はこれ以上は大きく増えない、増やしたくても自分たちの力では増やせないということを肌で感じ取っている、とも言えるでしょう)

理由その2:偏差値時代の弊害

不況で医学部が人気になると、当然狭き門ということで偏差値が上がります。私が受験した頃は医学部人気が最高に達していた時期で、国公立医学部の真ん中ぐらいが東大理1(理工系)と同じ偏差値と評価されていました。東大理1よりも偏差値が高いとなれば、当然最初は医学部を考えていない人でも向上心やプライドから、より偏差値の高い医学部を目指すようになります。そうやって「勉強が出来るから医学部に入った人々」にとってみれば、医学部定員大増員で医学部が「広き門」となり自大学の偏差値がガクッと下がることは、自身のプライドを大きく傷つけることになります。「自分はしんどい思いをしてこの大学に入ったのに、なんで下の学年の奴らは国の政策で易々と入ってこれるんだ。明らかな質の低下だ」という思いを持っても不思議ではありません。医師の増員が必要と頭では分かっていても、プライドがそれを心理的に拒否させるということは考えられると思います。この傾向は受験から時期の経っていない低学年に強いと考えられます。彼らの不満を和らげるには、普通定員の増員ではなく地域枠を増やすことで解決可能です。「彼らは別枠」という意識が働きますので。

理由その3:今後の体制への不安

これは医師増員の影響について長期的な視点で考えると出てくる懸念なのですが、医学部定員を1.5倍に増やせば、当然彼らが卒業した後は、1.5倍の研修医を教育しなければなりません。しかし、教育する側の世代の医師数はもとのままです。したがって、医師一人当たりの研修医に対する教育負担は単純に考えても1.5倍になります。しかも、検討会案では1.5倍の定員は10年ほど維持されることになっていますから、その状態が定員増加中の10年も加えて20年も続くのです。で、「じゃあ一体誰がそんなしんどい教育するんだ」ということですが、研修医のすぐ上で指導する医師を考えれば、今の医学生〜30才ぐらいの医師が担わなければならないのです。さらに、最近の医療情勢の悪化でベテランの医師が次々病院を去っています。我々の世代はその減少分もフォローしなくてはならないのですから、とんでもない負担です。

僕が医師増員1.5倍に強く反対している理由は「そんなことをすれば我々が過労死しかねないから」です。1.2倍ぐらいならなんとか耐えられるとは思うのですが。本音を言えば、「これから病院を退職して逃げる医師が定員増を主張しても、どうせ他人事なんだよな」と本気で思います。もし私を納得させたければ、いま本田先生含め、40〜50代ぐらいの医師の先生方が「必要があれば70才までは研修病院の前線に残る」と自ら宣言してください。それなら定員1.5倍に大いに賛成します。

理由その4:医療費が増えない不安

日経メディカルのコメント欄を見ていて思ったことですが、医師の中で医師増員に反対する人の中には「医師は増えても医療費は増えないのでは?」という疑念を持っている人がたくさんいます。厚労省の今までの施策を見れば、医療費抑制はもはや政府の規定路線といえますし、公的医療費を増やすとなれば税金や保険料を増額しなければならず、国民の理解が簡単に得られるとは思えません。医療費が増えずに医師が増えれば、当然医師一人当たりの給料は労働量が増えるのに減るということになりかねず、労働条件がさらに悪化する可能性が高い。しかも、医師のような養成に時間のかかる高度専門職は、簡単に供給量を調整できるわけでもないので、一度そういう状態に陥れば解消されるまで長い時間がかかります。

理由その5:希少価値が低下することへの懸念

医療界は1990年代後半以降、特に横浜市大患者取違え事件以来、マスコミに過剰かつ不当にバッシングされ続けてきました。結果として医師の士気は低下し、救急医療や地域医療が急速に崩壊してきたわけですが、ここ1年ほど医師不足が頻繁に叫ばれるようになって、医師の希少価値が上昇した結果、マスコミによるバッシングも弱まり、待遇改善も進むようになってきました。皮肉にも医師不足という憂慮すべき事態が、医師にとって待遇改善や窮状を訴える上で有利に働いているわけです。このことは医学生も敏感に感じ取っていて、正直、私自身も「もう少し医師不足の状態が続いてくれたほうがいいんじゃないか」と思うことがあります。逆に医師増員で医療需給が満たされると、どんなに悪い労働環境にあっても「代わりの医師はいくらでもいる。嫌なら辞めろ」ということになりかねず、将来的に国の医療費締め付けがより厳しくなったり、さらに長時間労働を強いられるのではないか、という懸念が出てきます。

立ち去り型サボタージュは医師にとっては大きな切り札であり、現に巨大な力が発揮されているということを忘れるべきではありません。大規模な医師増員によりこの切り札を捨てるのは医療界の勝手ですが、捨てた後に自らの主張をどうやって通していくか、その戦略を練らずして医師増員を叫ぶのは無責任だと医学生が感じるのも無理はないでしょう。今のような比較的有利な状態でも国の医療費は抑制する方針を堅持していますし、マスコミは医療ミス(?)を頻繁に報道で取り上げているのですから。

まとめれば医師増員は中短期的には医師(の労働環境)に有利に働くかもしれないが、長期・超長期的には不利に働く可能性があるということです。

現場にいてあと10年、15年以内に引退する医師と、まだ現場には出ていないがこれから30年、40年と働いていかねばならない医学生の主張が相反するのはある意味当たり前だと思いますし、どちらが間違っているor悪いというような視点でこの相反を捉えるは全くの的外れであると思います。それぞれにそれぞれの立場があるのです。