中山元大臣の日教組発言は決して間違っていない
「日教組批判は取り消すわけにいかない」中山前国交相インタビュー(上)
「徹底してやるしかないんじゃないの」妻の言葉に押され 中山前国交相インタビュー(下)
これを見てどうでしょうかね。決して間違っていることは言っているようには思えないのですが・・・。ちなみに大阪府の成人式に出席してみると分かりますが、国歌斉唱の時に歌える人は2割もいません。教えられてないので歌いたくても歌えないのです。強制されるのは絶対嫌ですが、歌いたいときは歌いたい、多くの若者がそう思っています。しかし、知らないので歌えないと(私もそうです。後で勉強しましたけどね)。まぁ、あの歌は緩慢すぎて歌いにくいというのもあるのですが。
そんなことはともかく、私は彼の指摘の中で非常に共感できる部分があります。
一番いまの教育をゆがめているの日教組だと。もちろんほとんど大部分の先生方はまじめに一生懸命子供たちに接しているけれども、一部の過激な分子がいてね、これが結局、声が大きいから、そのほかの先生方を従わせている。国旗国歌も教えない、道徳教育も反対する、これ一番の元凶じゃないかという、そういう話をしたんですよ。
私は正直、日教組の実態についてはよく知りませんが、一般的な事項として
「オピニオンリーダーといわれる人々の過激な発言が世間や業界をゆがめる大きな原因だ」
ということは強く感じるところです。
多くの人は日常生活において少なからず何らかの不満を持っています。その不満自体は正当なものだし、あって然るべきものばかりです。しかし、そこにオピニオンリーダーの過激な発言が飛び出すと、本来なら正しい方向に向いている不満が、その過激さに感心するあまり、いつのまにか鼓舞、扇動されて、全く別の方向に向いてくる。その過激分子の意図する方向にね。そして、色々な不満の力が結集され方向が定まるにつれ、もとは日常から来る不満がエネルギー源となっているがゆえ、自らもその方向が日常生活に根ざした正しいものであると勘違いし、もとの不満に忠実で冷静に見ている人までをも攻撃してしまう。人間の心理にはそういう怖さがあります。
実際、日本が戦争に突入していき、大政翼賛会なんかが台頭するようになったのも、ドイツでナチスが圧倒的支持を得たのも、インターン闘争をきっかけに東大紛争が始まったのも同じ構造だと思うんですね。
だから、私はオピニオンリーダーには自らの批判者を擁護するような人物になっていただかなくてはならない、と常に思っています。多様な意見を受け入れられてナンボ、常に客観的視点を失わず、全体の動きに行きすぎがあると思えば振り子を戻す、そういうことのできない人がオピニオンリーダーになれば、あとには悲惨な結末が待つばかりです。そんなことは過去の歴史から分かりきっていることなのに、なぜか人は騙され続ける。
まさに私の好きなこの一句に似ていますよね。
「名だたるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかり掴む」
この言葉は事なかれ主義を肯定するものではありません。常に変革や改革というものは必要です。しかし、行き過ぎは致命的な結果をもたらすことになる、それを決して忘れるなということをこれは教えてくれているのだ、と私は考えています。
私はだからこそ常に他人とは違う方向へのアンチテーゼを唱えたいと思っています。特に業界やコミュニティが「大同団結」とか言って、その一色に染まるときほど、アンチテーゼは唱えていかなければならない。私は常にそう考えています。
逆に言えば、「辞任すべき」と「辞任しないべき」で意見が拮抗するときには、何もする必要はないんです。ねえ、どこぞの国対委員長。