機能

形成の授業で非常にいい表現を見つけました。
「機能とは、失われて初めてその重要性が認識されるものある」
なるほど。そういう観点で言えば、医療を大事にしてもらうためには一度崩壊してくれたほうがいいのかもしれませんね。年金制度もいろいろ不満があるのなら一度やめてしまえばいい。その時に初めて制度、すなわち機能の重要性に気付くことでしょう。あの制度を維持するのにどれだけの努力が必要か、というのは身にしみてわかるはずです。
最近の人々は想像力が欠如しているせいか、官僚批判や制度批判はたくさんする割に「この制度がなくなったら」という所まで考えが及んでいない人が多いですね。しかし、制度批判ばかりしていると、たとえその人が制度を維持しながら改良したいと思っていても、少なからず制度をなくしたがっている人々の肩を持つことになります。小泉改革の時に行われたことというのは基本的にこういうことが利用されているわけなんですけどね。だから、当時は賛成にまわったにもかかわらず今になって「こんなはずじゃなかったのに。小泉はダメだ」と批判者は無責任にいう。「小泉じゃなくて、あんたのせいだよ」といってやりたい。
まぁ、輿論と世論の違いではないですが、世論は基本的に官僚よりもよっぽど無責任で気まぐれなんで、それに制度が振り回されているとだんだん社会がおかしくなっていく。医療崩壊は官僚のせいなんて言っている人がいますが、大間違い。国民が小泉劇場の時に自ら作り出したツケじゃないですか。数年前の自らの行動を振り返ることさえできんのかねぇ。私は振り返っているからこそ、これは国民の責任だと思う。
だいたいテレビとかマスコミっていうは「世論は常に正しい」「国民は常に正しい」ということを前提にして話を組み立てている。奥田氏の言葉を借りれば、「国民は常に正しい」とマスコミが“洗脳”しているわけです。でも、間違いのない人がいないように、世論もいっぱい間違いを犯している。当たり前のことですわな。別に間違えたって構わない。でも、間違いは間違いとして受け入れて反省してこそ、次にいいものが出てくるのに、そのプロセスが欠如したまま制度を批判するから、さらに間違いを増幅させていく。ここに「世論や国民、常識は間違うのだ」という前提を入れれるか入れれないか、さらに踏み込んで言えば、入れた時に視聴率が上がるか、それが民度の違いというものです。端的にいって民度の定義というものは、そういうものだと思う。結局は自らの間違いを認められるか、ですわ。人間なかなか間違いを認めるということは難しいけれども、時間はかかっても認められる人と認められない人の差は大きい。同じことが国民という人間の集合体にも言えるのです。
To err is humanであり、To err is societyでもあるのです。