復讐するは・・・

裁判員制度がいよいよ始まるそうです。私の住んでいる地域は全国一裁判員に当たりやすい地域ですが、現在のところ封筒は届いていないので今回は免れた模様。
しかし、刑事裁判というのは「国家と被告人」の闘いであるわけで、そこに被害者が入るのはどう考えてもおかしいわけです。原理原則どおり、被害者と被告とは民事裁判で争うべきでしょう。裁判員制度では、けったいなヒーロー気取りの正義感で、被害者に代わって被害者感情を判決に反映させようとする裁判員が多く出現するでしょうが、悪害しか及ぼさないでしょうね。

日本は明治になって「法治国家」というシステムを、ヨーロッパから新しく輸入しました。したがって現代の「法治国家」の概念というのは、日本の文化というよりも欧米のキリスト教文化に根ざしたシステムです。そして、キリスト教新約聖書には次のような一説があるのです。
愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。
我というのは被害者のことではなく、神を指します。つまり、「やられたからといってやり返すな、罰は神が与えるのだ」ということです。法治国家のシステムもこれに近いものがあります。すなわち、個人と個人が暴力で応酬しあう自然状態から、国家が個人から暴力を預かり、被害者の代わりに国家が法に背いたものに暴力を振るうのです。

もし、被害者やヒーロー気取りが間接的であるにせよ、国家の暴力に介入するとすれば、それは個人と個人が応酬しあう自然状態へ逆戻りということにもなります。そんな社会が果たしていいのか。私は非常に疑問に思います。被害者の気持ちは分かるけれども、この防波堤を突破すれば、なし崩し的に国民の自然状態への回帰、つまり動物化が進行する可能性も否定できません。特に最近のネットでの傾向を見ていると、国民が動物化している感が否めないですからね。元次官殺害事件でも「殺されて当然。ざまあみろ」的な書込がいっぱいありました。本当に日本のお先は真っ暗です。

ちなみに戦前にも陪審員制度というものが導入されたことがあり、なぜか1928年という世界大恐慌の1年前から開始されたわけですが、歴史は繰り返す、なんでしょうかね。だとしたら、また日本に恐ろしいことが近づきつつあるのかもしれません。