正常と異常

医学や生物学をやっていると何かにつけて疑問に思うことは、一体、何が正常で何が異常なのかということです。精神疾患などは特に正常と異常の区分が難しいものですが、精神疾患以外でも正常と異常の判別に迷うことはたくさんあります。たとえば、高校の生物学レベルの話を挙げると、人間には耳垢が乾いている人(湿性耳垢)と耳垢が乾燥している人(乾性耳垢)がいます。アジア人は乾性の人が多く、日本での比率は湿性耳垢が16%、残りが乾性耳垢だそうです。一方、白人や黒人では80%以上が湿性で乾性は少ない。さあ、ヒトhomo sapienceとしてどっちが正常で、どっちが異常なんでしょう?
えっ、優性遺伝するほうが正常で、劣性遺伝する方が異常?病気の中には優性遺伝するものもたくさんありますよ。
全人類の中で多いほうが正常で、少ない方が異常?じゃあ、黒人白人とアジア人の人口比率がかわったらどうするんですか?今まで正常と言われていた多数の人が、ある日突然異常になってしまいますよ。
そもそも、異常と正常を分けることがおかしいって?じゃあ、病気ってなんであるんですか?正常に対して異常を定義するから病気という概念が存在するんですよね?
ほ〜、人口比率として5%を割るものについては正常と異常を定義し、それを超えるものについては正常と異常を分けないと。なるほど、95%CIに基づいた科学的な考えですね。でも、有病率や罹患率が5%を越えるものなんてざらにありますよ。高血圧症の有病率は30%ぐらいと言われていますね。こいつは病気じゃないって?でも高血圧症はさらに重篤な病気の原因になりますし、病気の一種という考え方が主流です。
えっ、害を及ぼさないものが正常で、害を及ぼすものは異常って?たしかに今までの中で、一番妥当性の高い答えかもしれません。しかし、病気の中には害だけでなく益をもたらすものもありますよ。マラリアの多い地域における鎌状赤血球貧血症などは典型でしょうし、芸術家や作家の中には精神疾患が作風によい影響を与えたという話もよく耳にします。さらにこの定義では、「そもそも害とは一体何なのか」という問題が生じます。そのときその場にいた人が「これは害だ」と思っても、時間がたって別の人が検証すると結果的にこれは「益だった」ということは往々にしてあります。

さあ、なんだかよく分からなくなってきましたね。正常と異常の違いとは何なのか。そもそも分けることに意味はあるのか。分けてしまっていいものか。

皆さんはあまりそういうことを感じる立場にないかもしれませんが、私は分子遺伝学の実験をしていたので、このモヤモヤとした悩みを常に感じていました。モデル生物を用いた実験では、表現型(観察される生物の性質)が正常な株と異常な株を分けて管理しています。正常なものはwild tyepと呼ばれ、各種のゲノムプロジェクトによって大抵の場合、全塩基配列が解読されています。一方、それに対して正常とは違う性質を持つ株を変異株mutantと呼び、分子遺伝学の実験というのはまずこのmutantを見つけることからはじまります。具体的には、たとえばある薬剤を一定量投与すると普通のマウスはほぼ100%死ぬが、なぜかほとんど死なないマウスを見つけてくる(自然界から見つけるのは大変なので、大抵は変異原物質などを用いて確率的に発生させるのですが)。そして、見つけてきたmutantの遺伝子を解析し、どの遺伝子の異常によって、それがどんな影響を及ぼして、このような表現型の異常が生まれたのかということを追究するのです。

ただ、その表現型というのが微妙で、たとえば何℃以上にすると死んでしまうという表現型ならば、mutantは何℃以上では生きられなくなるので病気だなと言えるのですが、たとえば殺鼠剤に抵抗を示すmutantならばマウスの立場にしてみれば、過酷な条件下でも生き残れるわけで、これが果たして病気という異常なのか、むしろwild typeが異常で、mutantが正常ではないのか、という疑問はいつも生じるわけです。そこで、大多数を占めるものが正常で、少数派が異常だという定義を思いつくのですが、すると今度は果たしてwild typeが自然界の中で多数派なのかという疑問が生じてくる。確かに株が採取されたときはその株はwild typeだったかもしれません。しかし、今では環境が変わり、自然界に生息する大多数が遺伝子変異を起こした別の株に変わっているということは十二分に考えられます。薬剤耐性菌などはまさにその典型で、最近採取されるある細菌の多くが薬剤耐性を持っているという例はざらにあります。そうすると実験室のwild typeというのは、自然界からすればmutantということになる。どういう考え方をしても、正常と異常についてクリアカットな定義というのはできない。ただ言えるのは、wild typeとmutantの間には何かの「違いdifference」があるということだけです。

もちろん、「クリアカットに定義できないなら曖昧のままでいいじゃないか」という意見もあるでしょう。実際、私自身も普段は定義を曖昧にしたまま正常と異常を扱っているのですが、一方で病気の宣告というのは一人の人生を大きく変えるだけの力を持っています。さらに現代の社会保障制度では、病気の診断がついているときとついてないときでは、受けられる恩恵が全く変わってきます。異常と正常の定義が曖昧でいいのか・・・という疑問はいつもつきまといます。それを解消すべく診断基準というものはあるのでしょうが、一方で僅かな違いで診断基準から外れた人はすべて病気ではないのでしょうか?そんなことはないはずです。基準を定めるにせよ定めないにせよ、正常と異常を線引きする不合理というものは必ず生じるのです。

にもかかわらず、特に日本の文化は人を判断するのに「常識か非常識か」すなわち「正常か異常か」という命題に固執する傾向があります。はっきりした理由もなくです。分子遺伝学と医学で相当に「正常と異常」について悩まされてきた立場としては、安易すぎるといわざるを得ません。

ここから先は思想色が強くなりますが、だから私はあまり他人を安易に「異常だから」という理由で差別したくはないし、差別されたくもないのです。ある2つの対象の「違いdifference」を区別するのは決して悪いことではありません。私たちが持つ認識能力に本質的な間違いがなければ、物事の違いというのは必ずある。それは確かです。しかし、「正常が良くて安心、異常は悪くて危険」というようなことは決して言えません。薬剤耐性の話からも分かるように、正常が悪くて危険なことも多々ある。結局、このような「違いdifferece」に対する解釈付けは、本質から外れた意図的なものにしか過ぎません。おそらく、そのときの自称、多数派が安心するためだけのね。だから私は「常識」なんてものはあんまり信用しないし、それでもって人の良し悪しを批評するべきではない、と思うのです。