イニシエーション(通過儀礼)

昨日はP科のDr.や心理士さんと漫談をしてきたのですが、「医師のイニシエーションは何か」という話は私にとって大変勉強になりました。
イニシエーションというのは日本語では通過儀礼、あるいは加入儀礼とも訳されます。端的に言えば、人生の節目に行われる儀式のことで、七五三や成人式などが該当します。某先生の説によると、かつて「宇宙戦艦ヤマト」「ガンダム」などを見ることが「男のイニシエーション」だったわけですが、最近の「エヴァンゲリオン」とかになってくるとその辺の構図がぐちゃぐちゃになってしまっており、最近では「イニシエーション」そのものの存在が曖昧になってきているんだそうです。実際、私も小学校時代の「ドラえもん」以来これといったマンガやアニメは見ていないわけで、その点では自分にとっての「イニシエーション」は何か、そもそも「イニシエーション」は到来したのか、と問われると「わからん!」としか言いようがないのが現状です。ちなみに私の場合、子供っぽいといわれることは稀で、「口調が落ち着いている」というのが周囲の評価のようです(行動は全然落ち着きませんがね)。

「男のイニシエーション」はさておき、その先生曰く、医師の立場からすれば、一般人と医師の間にもやはりイニシエーションがあるらしく、それは「人体解剖」なんだそうです。「人体解剖」という過程で死んだ人間(我々は通常「ご遺体」と呼びますが)を部品としてバラバラに分解し、人間を「ひと」ではなく「もの」として見るスキームを身につける・・・確かに我々の間でも解剖実習を経た後は「もう元には戻れない」という感覚を持つ人が多いです。そして、さらにここから医学生は2つのルートに分かれます。すなわち、その後、ずっと人間を「もの」として見続ける人々と、改めて人間を「ひと」として捉えなおす人々です。前者は人体の部品たる「臓器」別に専門分化された道を駆け上がって行きます。一方で、後者は家庭医に代表されるようなホリスティックに患者を捉える道へ進むことでしょう。その先生は、「本来は医者は後者であるべき」とおっしゃっていましたが、私はどちらもあってOKだと思っています。人間を部品から構成される機械として捉えるほうが、共通のコンセンサスが得られやすく均質な医療サービスを提供できるからです。

一方で人を「ひと」たらしめている「こころ」の存在も決して無視は出来ません。「こころ」は「人体」と密接に連関しあっています。「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言いませんが、不健全な精神が続くと不健全な肉体になっていきますし、肉体が不健全だと精神を病むことも多いです。「こころ」をきちんと評価して治療に反映させないと、病気がなかなか治らないということもあります。ただし、「こころ」の評価は概して人体の評価よりははるかに不正確で曖昧です。治療者の考え方や捉え方に大きく依存してしまうのです。

私個人としては「こころ」の重要性は認めつつも、「こころ」の根本はやはり部品たる「脳」に原因があると考えています。しかし、具体的に「脳」のどの異常が、どのようにして「こころ」に異常を来たすのか、あるいは逆にどういう外的刺激が最終的に「脳」の異常へと発展していくのか、という機序が殆んど解明されていない以上、あくまで現時点における目の前の問題解決においては「こころ」は「こころ」として捉えるしかないと考えています。だから機械好きですが精神科を決してバカにはしませんし、そういう面にも積極的に目を向けていこうと考えています。

もっとも自分が精神的に少し病的であると自分で思っている、という側面もあるんですがね。しかし、それは別の先生曰く、「精神科医師のイニシエーション」になるんだそうです。