発達障害に関して

4月2日は世界自閉症デーだったそうですね。この分野では4年ほど前に発達障害者支援法が施行されてから、世間の認知度が高まり、ここ最近では発達障害の外来は何ヶ月待ちという状態だそうです。私も去年精神科の授業で初めて発達障害の概念を知って、「自分もある程度AspADHDに当てはまるのでは?」とも思ったりしているのですが(私の経験上、進学校や医学部はそういう感じの人の割合が多いです)、それはともかく何ヶ月待ちというのははっきり言って異常だと思います。

今日はこの発達障害について少し爆弾発言をします。ある程度基礎知識がある人を前提に書くので、発達障害について何も知らない人はwikipedia等で勉強してから読んでくださいね。

少なくとも現在の知見からすると本物の発達障害であれば、「支援する」とか「療育する」ことはできても「治す」ことは不可能なんですから、「診断を受けるor受けさせる」ということは、すなわち自分あるいはうちの子を「支援してほしい」あるいは「療育してほしい」から診断を受けに来るわけですよね。つまり、もし発達障害と診断されれば、「うちの子だけ療育を受けさせるとか、普段の学級以外に特別支援学級にも入れさせるのだ」ということを念頭においているのであれば、診察を受けることには多いに意義があるわけですが、支援などの何の介入もさせるつもりがないのに、わざわざ何ヶ月も待って発達障害の診察を受けさせることには全く意味がないということになります。
(意味がないと分かっていても、どうしても気になるというのであれば、本人または親の強迫的な側面が問題なわけで、そちらを精査してもらう必要はあるかもしれません)

→おそらく上記のようなことを書けば、診断をきちんと受けていないのに「疑い」「かもしれない」という言葉もつけずに「発達障害」を名乗っている人々から非難されるであろうことは承知です(ちなみに私は「かもしれない」というような言葉があるかないかにはかなりこだわります。だから自分自身のことを語るときは未診断なので、必ず「の傾向」「に似ている」とかそういう修飾子をつけるようにしています。それがちゃんと聞き手に感づかれているかは知りませんが、私は正しいことを言うまでのことです。ちなみに臨床医学では「疑い」という言葉も安易に使うべきではなくて、実は正確な定義があるというものも多いんですが)。

で、お次は定常発達人、特に頭の堅い日本的ババアとかを敵に回すことになるのですが、
「そもそも他人と同じようにいることがあるべき姿ですか?」
ということを言いたいわけです。少なくとも今30〜40才代以上の多くの人々は幼少期から「他人と同じようにしておきなさい」「他人と違うことをするな」と、半ば新興宗教のごとく洗脳され続けてきたわけですね。まぁ団塊の世代の自由奔放ぶりに関してはそれに対するアンチテーゼみたいなものもあったようには思いますが、やっぱりベースにある思想としては「他人と同じ=いいことorあるべき姿」なわけです。

しかし、私は発達障害やいわゆる変わり者たちの、他人とは異なる行動については、行動それ自身が問題なのではなく、そういう行動を異常と認知し、修正すべきと考える周りや世間の考え方や価値観、そしてその形成過程にこそ発達障害問題の本質があるのだと考えています。
(その点では児童精神医学の考え方そのものにある種の疑問を感じながらこの分野を勉強していることにはなります)

なんのこっちゃ分からん、という人はここ最近のブログを読んでくださいね。つまり、「情報は受け取り手に解釈の責任がある」ということです。言葉足らずですか?だったら説明します。

Aさんが異常な行動をしました。

Aさんについて記述した何の変哲も無い文章に見えますが、実はこの一文の中に登場する人物は、Aさんだけではありません。Aさんの「異常な行動」に気付く世間の人々という隠れた登場人物がいるのです。

さらに読み解いていくと、そもそも「異常な行動」とはどういうことでしょうか。
ある行為を「異常である」と言うためには、「異常」と「正常」を分け隔てる判断基準を行為の受け取り手(ここでは目撃者や世間)が持っている必要があります。もし判断基準など持っておらず、「そんなこと判断する必要も無い、判断しない、できない」というのであれば、Aさんの行動は「異常な行動」と捉えられることはなく、何の問題も生じません。つまり上のような一文を記述する必然性も可能性もないのです。

このことからいえることは、多くの人々は上の一文を見ると「この状況における問題はAさんにある」と思ってしまうのですが、実はAさんの行動を正常だとか異常だとか判断してしまう世間の人々の価値観にこそ本当の問題がある、ということです。

なお誤解を防ぐために言っておくと、ここでいう「問題problem」というのはどちらが悪い、とかどちらが変わるべきということとは一切無縁です。ただ、そこに着目すべき事由が存在するというだけの意味です。

また、厳密には「問題」というのはAさんにも世間にも等しく存在する可能性は私は否定しません。Aさんが行動しなければ、世間がいくら判断基準を持っていても、上のような一文が出てくることはないからです。でもたとえば、「隣で人が倒れているのに何もしなかった」というのが後々問題になることを考えれば、「行為をしない」ということそのものが一種の「行為」であるので、そのレベルまで考慮すると、やはりこの問題の本質はAさんよりもむしろ、Aさんを見つめる世間にあるといわざるを得ません。えっ、世間の「見る」という「行為」はどうかって?それ以上はややこしくなるので突っ込みません(と逃げておく)。

話がそれましたが、私は上のような考え方をベースに持っている人間なので、発達障害だとか、いわゆる「問題児」の問題を考えるときに「彼らをどう改良して適応させるか」ということを考える前に、まず問題が誰に存在するのか、そしてそれに対応させるようにして「彼らが変わるべきなのか、世間が変わるべきなのか、あるいはどちらも変わる必要がないのか」ということを考えます。もちろん答えは一様ではありませんし、問題となっている人やコミュニティによります。決まった答えが無いからこそ、この手の問題は難しいのです。

でも、一つだけ確実に言えることがあります。世間はあまりにも偏った見方をしすぎているということです。障害者に対する偏見だ、とかそういう人権主義者的なことを言っているのではありません。
障害者問題や「問題児」問題を考えるときに、障害者や変わり者にばかり目がいってしまい、この問題を発生させている張本人ともいえる、「自らの価値基準」に対する考察が少なすぎるのです。このレベルまできちんと考察すれば、「変わっていることはいいことだ」というような日本ではマイナーな考えも5分5分の確率で、自然と生まれてくるはずなんですがね。

それはともかく、発達障害の問題がここ最近とても騒がれていて、様々な意見や主張がとびだしてきては、世間のみならず学会や医療界でも色々と問題になる本当の理由は、もちろん発達障害のメカニズムというものがよく分かっていないからということもありますが、発達障害が上のような(本当は生きていくうえで重要なんだけど普段は無視している)哲学的な問題を否応なしに我々に見せ付けているからに他ならないと私は考えます。