重大犯罪者の言説には示唆的なものが多い

土浦の事件の公判が今週話題になりましたが、金川被告の裁判での言説にこんなものがあったそうです。

冒頭、弁護人から「人を殺すのは何に近いか」と問われた金川被告は「例えば、蚊を殺すこととか」と返答。証言台をたたくしぐさを見せ、「机を壊すのも同じですね」と続けた。

土浦連続殺傷公判

ここで「とんでもないヤツだ」で済ませてしまっては、この事件から全く学ぶものはないわけで、それこそ究極のバカだと私は思っています。我々の世界は忙しい日常生活の中で考えることを怠らせる、「常識」という悪魔によって支配されているわけですから、まずはこの悪魔を解き放ち、バイアスができるだけかからないようにしてこの言説を捉えなおすことが必要です。

そういう視点で意識しながら見ると、この言説には示唆するところが多いですね。

確かに蚊も人間も動物も一つの命であることに変わりはないわけです。八百万の神々という思想のある日本では、物や木にも「生命」があると考えることに不自然さはありませんので、机にも命があるのかもしれません。実際、テレビが経年劣化で壊れたら「もう、寿命だね」なんて言ったりします。
「時間という軸の中で、何か続いているものを壊す、途絶えさせる」という点では殺人も机を壊すことも、蚊を叩き殺すこともなんら違いはないわけです。もちろん、人が死ぬと友が悲しみ、親類が悲しむという問題はあります。机には友達や親子はいないでしょうし、蚊には友や親子はいても悲しむだけの「感情」が存在するかは微妙です。しかし、これらの「人間を殺すのはダメだが、蚊を殺すのはいい」という説を支持する論拠には矛盾する点がいっぱいあります。たとえば、感情の有無で命の差別化を図るとすれば、牛を食用に殺してよい、とは言えません。明らかに彼らには感情と捉えられるものがありますし、牛は動物愛護法にも指定されている動物です。動物愛護法に基づき「感情のある動物の場合は、食べるためなら良くて、みだりに殺すのはダメだ」と言って逃げる人もいるでしょうが、それならば「食べるために殺された牛」と「みだりに殺された牛」との間に、殺すという行為が行われる前の状態に於いて、命の重みに何か違いはあるのでしょうか?同じ牛さんですが。同様に、このような命に差別化を図ることを正当化する言説には必ずといっていいほど反例が存在します。(反例が見つかりそうにもない言説があれば、どなたか教えてください)

結局、このような命の差別化というのは人間の側のご都合主義にしかすぎませんし、「人間様だけが特別である」という考えは我々の傲慢でしかありません。

しかし、この3者の命に本質的な違いがないとしても、「人を殺していい、机を壊していい、蚊を殺してもいい」ということにはなりません。「命を絶つことがよい」ということが証明されていないからです。

私の考えと金川被告の考えに違いがあるとすれば、おそらくこの点です。彼は少なくとも表面では原則「命を絶つことはいいことだ」と考えています。だから彼は死刑にもなりたがっている。私はその逆です。だからこの道を選んだわけですし、実は蚊やゴキブリを殺す時にも、ためらいというか良心の呵責を感じながら殺しています。食肉については殺している姿が自分の目の前に見えないので、あまり感じることはないのですがね。

本当のところ、命を絶つことが「よい」のか「悪い」のか、どちらが正しいのかは私にはよく分かりません。一般的には「悪い」ことなのでしょうが、たとえば末期がんの患者でこんなに苦しむぐらいなら死にたい、と考えているような人の命を絶つことは、「悪い」ことなのでしょうか?戦争などで襲いかかってきた相手の命を絶つことは「悪い」ことなのでしょうか?

自分の中では「3つの命に本質的な違いはない」という答えは出せても、「命を絶つことがどういう場合によくて、どういう場合において悪いのか」について明確な答えを得ることはできません。おそらく私だけでなく、世間の99%以上の人々が答えを得ていないか、得ているつもりになっているだけだと思います。しかもたとえ答えを出せたとしても、それは人によって千差万別になることは間違いありません。価値観は多様なのです。

でも、上のようなことを気付かせてくれる、考えさせてくれるというだけでも、金川被告の言説が示唆するところは大きいと思います。私はいつも思っているのですが、重大犯罪を犯した人が発する言説は、この世界の本質を突いているものが多いなと思うんですね。同じものを見ていても、いわゆるマジョリティの人とは違う考え方をするから、偉人になったり犯罪者になったりするわけで、偉人だけでなく犯罪者の声に真摯に耳を傾け、よく考えるということは、大事なことだと思います。