YesとNoの間・・・第三の態度

前も書いたような気がするのですが、この世界には一般的には欧米人が好むとされるYesとNoだけの二元論的な態度では説明できないものがあると考えています。巷で言う「曖昧な」態度ということになるのですが、いわゆる「日本人の曖昧」はどちらかというと事なかれ主義的な「態度を明らか」にしない曖昧です。それに対して私が主張したい曖昧は「一つの明確な態度としての、YesでもNoでもない第三の領域の存在」です。

なんのこっちゃ、と思われる方は次の表を見てもらえれば分かりやすいかと。

Yes No 物事に対する態度
1 1 矛盾するので存在しない
1 0 Yes
0 1 No
0 0 YesでもNoでもない第三の領域

この発想は論理電子(デジタル)回路を扱うときによく出てくる、ハイ・インピーダンスという状態から得たものですが、Yesについても、Noについてもちゃんと判断を下しているので、これが「態度を明確にしていない」とは言えませんよね。唯一、論理学に意図的に違反している部分があるとすれば、YesとNoが完全なる相互補完であるという部分(排中律)です。

なんでも欧米型のYes/Noを求められ、それが常識とされる昨今において、メタ認知的に「Yes」と「No」そのものにYes/Noを適用することによって、単なる勘ではなく論理思考的に「第三の状態」を見出す、という作業は重要だし面白いものです。

一般的に私は自然界の本質は二元論では語れないと思います。人間の傲慢な妄想にしかすぎない。2(bi)という数字は邪悪です。2角形は形をなしません。2本足の椅子は倒れてしまいます。2大大国の対立は世界に軍拡競争を引き起こしました。男と女の闘いは常に絶えません(笑)。2というのは極端であり、不安定なのです。

私が自然界の本質として捉えていて、また同時に好きな数字は3です。3角形は形をなす最小の辺数を持つ図形です。3本足の椅子なら座ることができます。3権分立というものもありますね。DNAのコドンは3文字で1セットです。病気の特徴を表すのに、なんとかの3徴(trias)と言ったりします。

私の考える、3の次に本質的な数字は5です。5は3より大きいという点で冗長性を持っています。その点本質でないものが含まれることもありますが、仏教の五蘊、人間の五本指、五輪、五臓、五芒星など本質的なもの、美しいものには事欠きません。美しさという点では冗長性がある分、5の方が優れているのかもしれませんね。

しかしながらナベアツというのはすごいやつだと思いますね。