責任をはっきりさせることは果たしていいことなのか?

恒例の「常識」に疑問を呈するシリーズです。

現代社会はよっぽどのことがない限り、他人とのつながりなしには生きられない時代です。普通の人なら毎日のように他人と仕事をしたり、他人と電車の中で押し競饅頭をしています。引きこもり君でも食べ物がないと生きていけませんが、その食べ物一つを手に入れるにしても、遠く離れた外国の農家から、その土地のトラックドライバー、港湾労働者、輸送船の乗組員、日本のトラックドライバー、問屋、小売店の店員等々、何十人何百人の手を介して私たちの手元に届くのです。そして、その彼らが生活し、仕事をしていくためには、さらに多くの人とのつながりが必要です。

このように私たちの世界は、自分はせいぜい数十人ぐらいと付き合っているつもりでも、知らず知らずのうちに何十億という人間が巨大なネットワークを構成しており、そのネットワークの中で間接的にほとんどすべての人とつながり合っているというのが現実なのです。

こういう複雑で巨大なネットワークでは誰かのちょっとした動きが、予想外に増幅されて離れたところでとんでもない大きな動きに発展することがあります。風が吹けば桶屋が儲かる、すなわちchaosと呼ばれている現象です。そうでなくても、ある人が起こす行動にはその背景因子や心理因子として周囲の人から受けた多くの作用が関わっていることに疑いの余地はありません。たとえば、仕事で上司に怒られて、イライラして妻とけんかをし、怒った勢いで車を運転したら大事故を起こした、というようなシチュエーションでは少なくともシステム論的には、事故の原因は上司にも妻にも本人にもあるわけです。もしかしたら寝不足で本人の荒い運転に対応し切れなかった相手側ドライバーにも原因はあるかもしれませんし、上司が怒る原因となったのは本人の失態よりも世話のかかる若造君に手を焼いて上司がイライラしていたからかもしれません。そうするとその若造君にも事故の原因はあります。

このようにこの世界で起こるある一つの出来事の原因や遠因というものは、程度の差こそあれ、この巨大なネットワーク上に幅広く分布しているものであり、その寄与度は簡単に求められるような代物ではありません。

ところが、昨今の社会では「責任をはっきりさせよ!」とか「責任はだれだれにある」などと声高に叫ぶ人々が増えていますし、「責任をはっきりさせる」ことがあたかも正義のように語られています。しかし、前述したようにある出来事の責任は、本質的に人間のネットワーク上に幅広く分布し、かなり曖昧なものです。先ほどの事故に対して、「本人にだけ責任がある」と平気でいえる人は、巨大なネットワーク上に分散している様々な原因や遠因を正確に評価することなく、ただ最後の引き金を引いたというだけで、本人一人に他の人が負っている原因までをも押し付けているのです。

では「本人の責任度は80%で、妻と上司の責任度が10%である」という人々はどうでしょうか?さっきよりは随分マシな評価をしていますが、その責任割合の根拠はどこにあるのでしょうか?「ホイホイ、これは何パーセントね〜」と言って定量化できるような代物でしょうか?解釈や判断する人間の価値観によって、この責任割合なんてものはどうとでもなるのです。

つまり、現代社会では本質的に「ある出来事に対する責任をはっきりさせることはできない」のです。それを分かりにくいのは嫌だから不便だからとわがままを言って、無理やり責任割合を振付けたり、誰かに他人の分の責任まで押し付ける行為、それが「責任をはっきりさせる」ということなのです。出来事の原因を真摯に評価しないことだけでも社会として罪深いことですが、他人が背負うべき責任を特定の「役」の人間に押し付けることはなおさら罪深いことです。

このネットワークの中には当然私たちも含まれていますから、本当は私たちも遠く遠く離れたある出来事の原因をちょっぴり負っているかもしれません。その罪を知らずして、最後の引き金を引いてしまった人に対して自らの罪をなすりつけ、「お前は罪深いヤツだ」と罵倒している、それが今の社会の本当の姿だと私は思います。

本質的に曖昧なものは曖昧に扱ったらいいのです。無理にそれをはっきりさせるほうがよっぽど、正義に反します。しかし、私たちは何の根拠も無くそれを正義だと思い込んでいる。なんとも皮肉です。