QOLの概念に対する疑問

臨床実習に入る前からうすうす疑問に感じていたことが最近明確になったので、ここで書かせて下さい。概念的な間違いがあれば訂正していただけると幸いです。

日本の医療現場では最近QOLという言葉が日常的に使われるようになっています。これはQuality of Lifeの略で生命の質であるとか生活の質というように訳されます。この概念は、医療が「生=勝ち、死=負け」というあまりに単純な基準で動いてきたことに対するアンチテーゼとしての役割を持っています。例えば癌の終末期医療では激しい痛みに対してモルヒネが投与されることがあります。しかし、このモルヒネは痛みこそ取りはすれ、延命の効果はありません。それどころか、モルヒネの副作用によって生命期間が短縮されることがあります。しかし、モルヒネを投与することで痛みが緩和され、家族ともじっくり話ができ、遺書も書くことができるのならば、激痛で何もできないよりは、その期間の本人の生活を有意義にしていると言えます。すなわち命の長さだけではなく、生きている間の生活の質を大事にしよう、というのがQOLという概念の意図するところです。

私自身はQOLという概念が悪いとは思いませんし、非常に優れた概念だとは思います。命の長さだけにこだわるよりかはよっぽどマシだと思います。しかし、昨今のある医療分野において用いられる「QOL」という言葉にはいささかの疑念を感じています。それは予防可能な疾患が絡む時です。

たとえば、タバコが肺癌や食道癌の高いリスクファクターであることは周知の事実ですが、医療現場ではこの事実をもって「この人のQOLを考えると、禁煙によって癌というQOLを著しく下げる病気のリスクを下げることが望ましい」というようなアセスメントが往々にして行われています。ここに私は強い疑問を感じるのです。

確かに病気になればその人の主観的、客観的QOLを大きく下げます。しかし、喫煙という嗜好行動をやめさせられることによる、発病までの生活の質の低下はどう考えるべきでしょうか?肺癌の患者さんには多いのですが、「人生で何よりもタバコが好き」という人はやっぱりいますし、「病気になってもいいからタバコが吸いたい」「もう末期に近いけれどもタバコは手放せない」という人も結構います。そういう人にとっては医療者という第三者的視点にいる人間が考えるQOLと、本人が考えるQOLは大きく異なる可能性があります。つまり、病気のQOL低下を低く評価し、嗜好品をたしなむことによりQOLの上昇を高く評価している可能性があるのです。

さらに、本人が「病気によってQOLが下がり、それが喫煙によるQOLの上昇度合いを超えている」と考えている場合でも、「生活の質を無視してでもあえて嗜好行動をとった、ということ(=自己決定権を行使したこと)による自身の幸福度の方が大事である」と捉えている場合はどうでしょうか。そういう人々にとってはQOLは決して至上の概念ではありませんし、QOLの概念でもって医療者が患者に禁煙を強要することは、もはや患者の利益を逸しているとしか言いようがありません。

このような点から私はQOLは決して万能の概念ではないし、今後はさらに上位の概念を考慮していくべきであると考えています。

というわけで提唱したいのがHappiness of Life(HOL)という概念です。直訳すると「人生の幸福」。一番大事なのは生命の長さでも、質でもない、最終的には本人にとっての幸福度なのである、という考え方です。幸福度はまったく主観的なもので、客観的評価はできません。客観的評価をしたとしてもそれはあくまで推測でしかない。極端な話、即身仏を希望する人ならば、どう客観的に見ても不幸なはずの「飢え」がこの上なく幸せなのかもしれない。HOLの概念はQOLよりもさらに徹底的に客観的評価の余地を省いています。患者が幸せだと言えば幸せなのです。

ここまでくるともはや医療というよりも宗教や哲学に近い領域ですが、他者の思い込みによる客観的評価の余地を徹底的に省くからこそ真の「患者中心の医療」が実現できるし、それが価値観が多様化する社会の中で今後求められていくことであると確信しています。


なお、最後に断っておきますが、私は喫煙しませんし、タバコの煙が大嫌いです。医学生としては全くタバコをお勧めできません。でも、喫煙者にも吸う権利はあると思います。熟慮の上で幸福になる権利はあるのです。