事故調の最大の問題は司法の関与にある

JR西の問題ですが、想定問答集が作られていたそうです。そのタイトルは「ポリちゃん想定問答集」だそうで。
JR脱線事故、事情聴取用に「ポリちゃん想定問答集」

官僚組織や大企業では記者会見や審議会の際に事務方が想定問答集を作成するのが当たり前になっています。頭の整理や見解の統一という目的もありますが、不用意なことをしゃべってあとで問題にならないようにするという目的が大きいでしょう。事実、想定問答集を作る習慣が無い中小企業の記者会見ではトップが不用意なことをしゃべってマスコミに激しく追及される、あるいは逆に同情を買うというようなケースが散見されます。その分、大企業の記者会見に比べると中小企業の記者会見は見ていて面白みがありますね。

今回の問答集の存在はJR西が大企業らしく官僚機構で動いているということを如実に表しています。以前のJR西の言動を見ていても、やはり官僚機構だなと思える部分がたくさんあるので、実際に官僚機構なのでしょう(巷で言う「国鉄体質」)。福知山線脱線事故は官僚機構が無茶に利益を追求するとどういうことになるかということを私たちに教えてくれました。官僚機構はそこそこの利益を出してくれたら十分なのです。むしろ損失でもいいぐらい。官僚組織に利益を出させようとする政策は明らかに間違っています(だからといって官僚組織をすべてつぶしてしまうのもまた間違い)。

それはさておき、この問答集や資料集、事故調の調査ではなく警察の調査に対して作られたものです。一般人の中には勘違いしている人も多いようですが、事故調は再発防止を目的とする組織で責任追及の目的はありません。一方で警察には責任追及の目的はあっても再発防止の目的はないのです。二つの組織はまったく異なる性質のものです。

それを踏まえたうえで、事故調ではなくポリちゃん向けに資料が作られていたということは、いかにJR側が「刑事責任追及」に対して敏感になっていたか、ということをよく表しています。事故調関係者に対して接触を図ったじゃないか、という指摘はありますが、それは事故調の調査ではなく警察の捜査を念頭に置いたものと考えられます。その証拠にJRの社員は公聴会公述人との接触の中で「運転曲線を提示しないでほしい」と懇願しているのです。

運転曲線は公述人が当時の福知山線のダイヤが余裕の無いダイヤだったわけではない、ということを主張するために用意したもので、本来ならば事故調査の上ではJRには有利に働く資料です。ところが、その運転曲線には現場のカーブが急激な減速を必要とする場所であったというデータも含まれていました。もともと国交省は急激な減速を必要とするカーブに対して鉄道各社を指導してはおらず、このデータがたとえ事故調の報告書に記載されたとしても、JR西だけに問題があったとは言えないため(事実急激なカーブにATSを設置していない会社などゴマンとあったし、かつて函館線の事故を受けて出された通達も居眠り防止を主とするものであった)、報告書から受けるJR西の悪印象度は相対的に少ないはずです。

しかし、刑事責任追及には必須である「予見可能性」という観点からは、このデータは、余裕の無いダイヤというデータよりはるかに責任追及の材料として使いやすいものです。そもそも余裕の無いダイヤを元に経営陣に対して予見可能性を主張するには無理があります。何を以って法的に適正なダイヤとするかの基準が不明確ですし、ある一路線の一列車の特定の時期のダイヤが余裕の無いダイヤであったということを経営陣が知るはずもないからです。たとえ余裕の無いダイヤだと分かっていたとしても、ダイヤが守れないのなら遅れたらいいではないか、と考えていたのであればそれが過速につながり、さらに脱線の危険性があると予見する可能性を指摘するには無理があります。因果関係が離れすぎているのです。
(注:余裕の無いダイヤが罪に問われた例としては、法定速度以上で走行することを前提にダイヤを作ったバイク便の運行管理者が逮捕されたことがあります。しかし、JR西のダイヤは停車時間や余裕時分が総合的に足りないとはいえ、制限速度を超過しないとたどり着けないという計画にはなっていません)

一方、あのカーブでの急激な減速を材料にするのであれば、東西線開業+尼崎駅付け替えというJR西の大事業ゆえに、経営陣が資料に目を通している確率は高くなりますし、当時は大して着目もされませんでしたが、函館線事故という格好の前例があります。この事故が上層部で少しでも検討された痕跡さえ見つければ、その教訓が目前で検討された尼崎駅付け替えでも思い浮かんだはずであると、予見可能性を主張することが可能になります。

以上のことから公述人が提示しようとした運転曲線は事故調査ではJRに相対的に有利に働いても、捜査ではJR、特に経営陣に対して不利に働くことが予想されたので、JR社員はあえて公述人に対して公聴会でこの資料を出さないように働きかけたと考えるのが最も自然です。実際、おそらく事故調査しか念頭になかったであろう公述人はこの働きかけの意図が全く理解できなかったようで、その旨を報道機関に語っています。

少し長くなりましたが、このことからいえるのは、JR西の一連の事故調や捜査機関に対する不適切な対応のほとんどは事故調査ではなく刑事責任追及に対する対策であった、ということです。実際問題、事故調査でJR西に対していくら批判的な報告書が出されようとも、事故調から責任を追及されることはありませんし、すでに事故後暫くの運行停止という重い行政処分や社会的な信用低下を経験しているわけで、そこからJRが更に失うものなどないに等しいのです。しかし、刑事責任となると話は別で、まだ捜査は継続されていましたし、経営陣の訴追というさらに大きなダメージをこうむる可能性がありました。だから警察の捜査に対してそこまでの対策をしたのでしょう。それは国家権力と戦わなければならない被疑者にとっては当然のことであり、同様に刑事訴追によってダメージを受ける組織からしても当然のことでしょう。このことはなんら不思議には思いませんし、これを過剰に問題視するのも如何なものかと思います。

それよりも問題視しなければならないのは、刑事捜査に対する対策が刑事捜査とは本来無縁の事故調の調査に対する干渉に及んだということです。なぜ、JR西は事故調にまで介入しなければならなかったのか、それこそが今回の事件の一番本質となる問題です。なぜなら刑事捜査に対して多少の干渉が加わったところで、担当者の実績に傷がつくとか、せいぜい遺族が心的な不満を持つぐらいですが、事故調査への干渉は将来発生するかもしれない事故に対する防止効果を低減させ、場合によっては何百という人の命を奪う可能性のあることだからです。

本来、事故調の報告書は再発防止のために使われるもので責任の追及に使ってはなりません。報告書にもそう書いてあります。しかし、実際には司法制度の不備と国民の合意が形成されていないことによって、報告書を刑事裁判において利用することが可能になっていますし、実際使われています。事故調の報告書を変えることが、刑事捜査を変えることに繋がる仕組みになっているのです。この不適切な仕組みこそ、この事件から我々が学び、改めなければならないところです。市民にこの仕組みを変える意思と勇気がない段階では、日本には真の「安全」という概念は存在しないのも同然なのです。