今日の「たったひとりの反乱」

今日のNHKで放送された「たったひとりの反乱」。ミートホープ事件で告発を行ったチームの話が出ていましたね。このような「内部告発」は私にとっては非常に苦い思い出の一つです。この「内部告発」がきっかけで体調を大きく崩したと言っても過言ではないでしょう。
もっとも、私は告発自体はしたことはありませんし、私に関わりのある内部告発事件ではどちらかというと、個人的な恨みが告発につながったというのが真相であると聞いていますが、いずれにしても内部告発とその後のマスコミ、行政の動きがどれだけ周辺の人間に強いストレスを与えたかという観点からは、今回の番組は非常に真実味のあるものでした。

告発したミートホープ常務が番組の最後で「今回の内部告発で得たものは何ですか?」と言われて、しばらく考え込んだ後、「なにもないです。失うもの多くして得るもの少なし」と答えた時には思わず頷いてしまいましたね。十分に予想された答えではありましたが・・・。
すでに案件から身を引いていた私も、当初は内部告発によって何かが変わってくれると期待したものです。しかし、マスコミの激しい周辺の取材、身近な人々が事件で迷惑を被っている様子、上部組織による類似行為の実質的な隠ぺいと開き直り、責任のなすりつけ、その後の裁判沙汰・・・そういうもの見ていると結局、何も得るものはありませんでしたね。はっきりと言えます。
失うものしかなかったと思います。すでに案件から身を引いていて、特に上部組織からの調査も入らなかった私ですら、そういう思いを持つのですから、渦中にいた人々の心情は察して余りあります。

ミートホープの常務の言葉の中でもう一つ印象に残ったものがあります。
「私は正義感で今回のことをやったんじゃない。追い詰められてやっただけだ」

私は社会正義というものを全くといっていいほど信じていません。この社会は人と物質という要素が無数の連関で連結された巨大システムであり、そこでの行為や作用は結局のところ、ただその行為や作用にしか過ぎないからです。

行為に何でも意味づけをしたがるのは、人間が本質的に持つ欺瞞の象徴です。自分が自分や何かを正しいと思いこむことで、自分の中だけでも誇りや確信を持っていたい。そういう人間の傲慢な欲求が行為に意味づけを行います。しかし、意味づけが人間によって行われる以上、その意味は常に恣意的で、二面性を持ちます。ある行為は特定の状況にある人からは正しく、別の状況にある人からは間違っていると認識されるのです。事実、戦争や刑罰という文脈では人殺しを何とも思わない人など、この日本にもゴマンといますし、それはそれで仕方がないことなのです。

よって社会正義などという一般化された理念は人間が作り出した幻想にしか過ぎません。ある人にとっての社会正義は、ある別の人にとって社会不正義です。別の状況に直面した「ある人」や、正義だと思っている当の「ある人」にとっても実は社会不正義であることが往々にしてあります。

事実、この常務は偽装肉を出してはいけないという正義感は多少なりともあって、今回の告発に踏み切ったはずです。しかし、実際にその告発は身近にいる真面目な人の失業をもたらすという不正義を大いに働いています。したがって、この告発という行為に対して、彼は正義とも意味づけはできるし、不正義とも意味づけできます。正義であり不正義であるという矛盾した意味づけも可能です。私たちが何を言おうと「彼にとっての告発の意味」は最終的には彼が恣意的に決めることであって、本質的に変わらぬことというのは彼の告発という行為は社会を変えたということと、彼の身近な人を苦労させたという事実だけです。

彼はこのことを認識できているからこそ、あんなことを言ったのだと私は思います。「正義感でやったんじゃない、追い詰められてやったんだ」というのは、行為に対する意味づけの回避です。周りの状況が、つまりシステムが最終的に私をそう行動させるように追いやったのだと。とどのつまり、告発という行為に意味づけを行うことは不可能だ、というのが彼の結論なのです。

いずれにせよ、内部告発事件に関係した人々というのは少なからずの虚しさと心の傷を抱えています。本当に葛藤だらけだと思います。それを抱えて生きていくことは本当につらいことです。私は彼を英雄視はしません。敵視もしません。ただ、ありのままにミートホープの告発を行った人間である、という見方をしたいと思います。それが彼にとっての、彼への見方に対する望みだと思うからです。正義も不正義も働いた彼を一面だけ捉えて英雄扱いすることは彼にとっても大いに負担でしょうからね。